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6/28/2020

昭和4年敬老状

久しぶりの書き込みになります。

昭和4年(1929年)4月20日、六辻村(現在の埼玉県さいたま市南区の一部)教育会長から高齢者慰安会において曽祖父に喜寿を祝って贈られた「敬老状」です。


曽祖父は昭和14年に87歳で亡くなったそうですが、昭和初期の時代では、かなり長寿だったと思います。

8/15/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その5:最終回)

昭和13年4月発行の埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」の第5回目です。このシリーズはこれで最終回とします。
オッと目にとまったところを順不同で書いていきます。

●浦和連合青年団・浦和連合女子青年団
その設立の経緯などが記されています。事務所が第一尋常小学校内に置いたとあります。青年団の活動そのものについてはこの本には特に記載はありませんが、以前、昭和11年9月1日発行 埼玉縣聯合男女靑年團 修養指箴(修養指針)をご紹介しましたのでそちらをご覧いただけば多少ご参考になるかと思います。

●金融機関
昭和13年当時、浦和に店舗を構えていた銀行・生命保険会社です。掲載順に記載します。
【銀行】武州銀行、武州貯蓄銀行、日本勧業銀行、昭和銀行、第八十五銀行
【生保】第一生命、仁壽生命、三井生命、明治生命、日清生命、千代田生命、愛国生命、日本共立生命、安田生命、帝国生命、太陽生命、昭和生命、第一徴兵
現在はその名前が残っていない機関が多く、現在の金融機関との関係がわかりにくいですが、銀行については、一般社団法人全国銀行協会のHPの「銀行変遷史データベース」、生保は一般社団法人生命保険協会のHPの「生命保険会社各社の変遷図」で現在までの統廃合の状況がわかります。

●浦和人物鳥瞰
当時の浦和市で活躍された名士の紹介です。学歴、職歴、出自、人柄、趣味など詳しく書かれていて、自宅の電話番号や子供の名前・年齢なども書かれている方もいます。個人情報の取り扱いが厳しくなった今の時代ではここまで紹介するのは難しいでしょうね。
埼玉県知事、浦和市長、市会議員、弁護士や教育、医療、商工業など様々な分野の名士69名について24ページを割いて紹介されています。
その中でこんなところでまた見つけてしまったお名前がありました。大久保通次氏です。私のこのブログで以前「大正時代の歯の衛生の本」という小冊子を紹介しましたが、その著者が大久保歯科医院・口腔外科医院の大久保通次氏でした。文学的な序文を書かれ、また、歯みがきの啓蒙のため自費でそのような小冊子を配布するなど、素晴らしい方がいらっしゃったんだと思った次第です。大久保歯科医院の住所が「浦和町表門通」ということくらいしかご本人の情報がなかったのですが、今、ずいぶんと明らかになりました。
京北高等歯科医学校長、大久保通次氏は学校長としての人格を持つだけに同校の発展を見ている。元埼玉会館前に新築開校されたものだが、今は大宮町に移校されて爾来発展を続けている。同校は男子にて歯科医師たらんとするものは必須な学術を教授するを目的とされ、今や数百の卒業生を出して成績優秀さは氏の熱心なる賜である。
歯科医学校の校長先生もなさっていたのですね。現在大宮区に同名の歯科があり、HPを拝見すると、院長さんのおじいさまが昭和16年に開業されたとあります。埼玉評論のこの雑誌には、昭和13年の時点で既に大宮町に移ったとありますので直接の関係はないのかもしれません。

●広告いろいろ
埼玉評論のシリーズその1の冒頭に書きましたが、目次に掲載されている162ページの後ろに80ページくらい広告が掲載されています。その中からいくつか紹介します。
  • 浦和市医師会会員:医師会会員45名の診療科目、氏名、町名、電話番号が掲載されています。電話番号はたった4桁の数字が書かれているのみ。今でも続いているところもたくさんあります。内科、小児科、産婦人科、外科、皮膚科、眼科、耳鼻咽喉科、呼吸器科、泌尿科、肛門科といったお馴染みの科の中に「花柳病科」というのがありました。何となく想像はできます。
  • 浦和産婆会員:お産婆さんお一人お一人のお名前と住所が書かれています。何と驚くことに私を取り上げてくださったお産婆さんのお名前を見つけました。意外な感じもしますが、この本が発行されてから僅か22年後に私が生まれたのですから、それほど不思議ではありませんね。
  • 書籍文具紙店:須原屋書店、佃文教堂など今も営業されているお店もありますが、もう閉店してしまったお店の名前を見つけると懐かしさ、寂しさ、残念さが入り混じった何とも言えない気持ちになります。
  • 人生の別天地:これは右の写真を見ていただいた方が早いですね。今はもう残っていないでしょうね。
  • 浦和撞球場:ビリヤードですね。昭玉(警察所裏)、ウラワ(浦和駅前)、みやこ(埼玉会館内)、美枝子(東京電燈会社前)、東(八十五銀行横通)、明石(浦和公会堂前)と狭いエリアに6軒もあります。人気があったのでしょう。
  • 浦和芸妓連:14軒もあります。店の名前、電話番号、芸者さんの名前が並んでいます。そして幇間が1軒。今は浦和に芸者さんはいるのでしょうか?
  • 生徒募集広告一覧:既に紹介した浦和女子洋裁学校、宮崎裁縫高等女学校、埼玉中学校、そして大久保通次氏の京北高等歯科医学校の他に、大宮農商学校、与野農商学校が掲載されていました。Wikipediaをみると大宮農商学校は埼玉県立大宮高等学校の前身の一つとのこと。与野農商学校は当時与野町外六ヶ村立(木崎村、六辻村、土合村、大久保村、植水村、三橋村)の学校で埼玉県立与野高等学校の前身です。しかし、複数の自治体共同で学校を設立していたんですね。
  • 著名業者:これはいろいろあります。以前ブログで紹介した「洋品百貨のモリ商会」、中山道にお店を構える「浦和漬の酒井甚四郎商店」、浦和駅西口を出て左手に見える「袋物専門油屋カバン店」、旧中山道調宮神社前「石井銃砲店(今は浦和銃砲火薬店)」などはもう創立80年以上ということですよね。
ということで、昭和13年の浦和の様子を5回シリーズでお届けしました。
今では無くなってしまったものもあれば、80年以上前から姿形は変わってもずっと引き継がれて今も続いてものもある。
私のふるさと浦和にいっそう愛着が湧いてきたような気がします。


8/06/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その4)

昭和13年4月発行の埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」の第4回目です。
今回は昭和13年当時の教育機関の一覧をご紹介します。
そのうちのいくつかは当時の浦和の地図を紹介した第2回目にも触れています。
多少の重複はご容赦ください。
本に掲載順に①創立/②生徒数/③学級数/④職員数/⑤特記事項を記載します。
各校の規模がイメージできるかと思います。

浦和高等学校 (現在の埼玉大学)
 ①大正11年11月/②450名/③15学級/④67名/⑤-
埼玉県師範学校 (現在の埼玉大学教育学部)
 ①明治6年1月/②376名/③11学級/④25名/⑤-
埼玉県女子師範学校・埼玉県立浦和第二女学校 (現在の埼玉大学教育学部・浦和西高等学校)
 ①明治34年3月、明治36年4月附属小学校開校、昭和9年3月県立第二高女併置/②271名(師範学校)、99名(高女)/③8学級(師範学校)、20学級(高女)/④42名/⑤-
埼玉県立浦和中学校 (現在の浦和高等学校)
 ①明治28年6月埼玉県第一尋常中学校創立、明治34年改名/②1004名/③20学級/④44名/⑤-
埼玉県立浦和高等女学校 (現在の浦和第一女子高等学校)
 ①明治33年3月私立埼玉県高等女学校を引き継ぐ/②985名/③20学級/④43名/⑤年限5年制
浦和商業学校(市立) (現在の浦和商業高等学校)
 ①昭和2年3月/②856名/③15学級(内 一種12学級、二種3学級)/④32名/⑤-
男師附属小学校 (現在の埼玉大学教育学部附属小学校)
 ①明治7年8月/②755名/③14学級/④24名/⑤-
女師附属小学校 (現在の埼玉大学教育学部附属小学校)
 ①明治36年4月/②321名/③8学級/④10名/⑤-
浦和市第一尋常高等小学校 (現在の高砂小学校)
 ①明治4年9月/②2260名(内 尋常170、高等469名)/③40学級/④47名/⑤(生徒数の内訳が合いません)
浦和第二尋常小学校 (現在の常盤小学校)
 ①昭和2年4月浦和市(第一)尋常高等小学校の分校として設置/②1541名/③29学級/④33名/⑤-
浦和市第三尋常高等小学校 (現在の木崎小学校)
 ①明治7年5月北足立郡木崎領家村長覚院内に木崎領家小学校として創設/②811名/③15学級/④19名/⑤-
浦和第四尋常高等小学校 (現在の谷田小学校)
 ①明治6年太田窪小学校と称す/②779名/③15学級/④19名/⑤-
浦和市第五小学校 (現在の本太小学校)
 ①明治44年北足立郡木崎小学校分教場として創立/②1151名/③22学級/④25名/⑤-
浦和産婆看護婦学校(私立) (現在の高田クリニック)
 ①大正3年4月/②64名/③1学級/④4名/⑤-
昭和産婆看護婦学校(私立) (現在の石川病院)
 ①昭和5年12月/②600名(卒業生総数)/③-/④-/⑤看護婦学科1ヶ年、産婆科1ヶ年
宮崎裁縫高等女学校 (大正7年創立ですがその後の詳細がわかりません)
 ①大正7年(創立)、大正12年(学校編成)、昭和6年(文部大臣甲種認可)/②25名/③6学級/④13名/⑤-
浦和洋裁縫女学校 (現在の学校法人小松原学園)
 ①昭和11年/②24名/③4学級/④8名/⑤-
済美家政女学校 (現在の浦和幼稚園の学校法人浦和済美学園と関係あり?)
 ①大正15年4月3日/②18名/③2学級/④8名/⑤-
埼玉中学校 (昭和32年4月 浦和市立高等学校に統合)
 ①昭和6年3月/②11名/③5学級/④12名/⑤-
青年学校(浦和市第一、第三、第四青年学校)
 ①-/②308名/③11学級/④49名/⑤-
浦和幼稚園(私立) (現在も浦和幼稚園)
 ①-/②64名/③2学級/④4名(保母)/⑤-
常盤幼稚園(私立) (現在、同名の幼稚園はあるが、HPを見ると創立は1954年(昭和25年)とある)
 ①-/②38名/③2学級/④2名(保母)/⑤-
麗和幼稚園 (現在も麗和幼稚園)
 ①-/②44名/③2学級/④2名(保母)/⑤-
双葉幼稚園 (現在も双葉幼稚園)
 ①-/②73名/③3学級/④3名(保母)/⑤-
女師附属幼稚園(県立) (現在の埼玉大学教育学部附属幼稚園)
 ①-/②57名/③2学級/④2名(保母)/⑤-

8/05/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その3)

昭和13年4月発行の埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」の第3回目です。ここからはいくつか話題を拾っていきたいと思います。
まずは「浦和の郷土史」埼玉県史編纂主事による3ページの記事です。

●古代~大和時代・奈良時代・平安時代
  • 浦和の地名が浦輪即ち彎曲した海の入江から来たことは明らかである。
  • 成務天皇(13代天皇)の御代に武蔵国造が任命され、その拠点が現在の鴻巣辺りで南方への開発に力が注がれた。光仁天皇(49代天皇)の宝亀2年、それまで東山道に属していた武蔵が東海道に属せられ、中央政府からの公の交通が南方に向けられるに及び鴻巣以南の大宮、浦和の交通が非常に開けてきた。伊勢大廟の調貢を司るところが浦和岸にでき、後にそれが調神社となったのが既に奈良時代であるから、その当時の浦和が江戸湾の一港として物資の積出しに都合がよかったとみられる。(←浦和が港町だったとは驚きです!)
    * これについてはWikipediaの記載と異なるように読める。Wikipedia「浦和宿」では「浦和宿の少し手前岸村(現在の岸町)にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。 しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。」とある。
  • 奈良時代には朝鮮から帰化した人々が浦和とは江戸湾の一江を隔てた新羅郡に住んでいたので、大陸文化の影響を受けることも多かった。大化改新で施行された条理制度の遺構が与野の近くに見られる。
  • 平安の時代の初めには玉蔵院が創建された。平安時代より地方に興った荘園と武士は浦和地方にもその開拓の手を容れ、木崎領家、地頭方などの地名が見られるに至っている。
●鎌倉時代~室町時代
  • 太田窪の守光院縁起や玉蔵院の寂堂の奥書である調宮縁起には鎌倉時代の浦和地方の武士の活躍が記されている。武士の居館跡が残っていたり、堀ノ内、館ノ内などの地名からもそれらを窺い知ることができる。
  • 足利時代、武蔵は戦乱争奪の中心地であり正確な郷土史を知る材料は少ないが、記録に残る川越、岩槻などの戦火の状況からは浦和も幾分の被害は免れなかっただろう
●安土桃山時代~江戸時代
  • 天正18年豊臣秀吉が小田原北条氏を征する頃、これまで北条氏に服していた各地の人々は、鉾を収め秀吉に従ったり或いは戦争より遁れて隠れ農民となった。浦和宿の旧名主星野家の由緒書を見ると、祖先が北条家の臣の婿養子となったが、豊臣方に召し出され小田原攻めの道案内をしたとあり、その後武士となって姓を星野と改めたとある。
  • 家康が関東八州を得て入国するに際し、家康は岩槻城主に浦和の地を預け幕府の直領とした。浦和には市場の取立を許され、星野家は市場取締り役として活躍した。浦和代官中村彌右衛門は、非常に善政を布いて浦和地方の発展に努力した。その建立した寺が木崎の廓信寺である。
  • 二代将軍の元和年間の浦和の様子は、芝村長徳の寺住職が記しており、中山道の一駅として相当に人馬往来があったものの、その繁栄は熊谷、大宮には及ばなかった
●明治時代以降
  • 明治維新に際して、岩槻藩の統治を脱して武蔵県、明治2年1月には大宮県となり県庁は東京馬喰町、出張所が大宮町にあった。
  • 明治2年9月には浦和県と改称し、県庁を浦和に移して翌3月より事務を開始。
  • 明治4年7月に廃藩置県、10月には一時群馬県の名の下にあったが、間もなく埼玉県となり埼玉郡と足立葛飾両郡の一部がそれに属すこととなった。明治4年12月、県令(今の県知事)が県内を巡視し県庁を岩槻に置くことを決めたが、地利の都合上、一時的に浦和にある県庁を用いることとなった。
  • 明治元年、3年の明治天皇の武蔵一宮氷川神社への行幸参拝の際、浦和本陣にお泊りなられた。かかる光栄と、岩槻が交通上やや不便であるため、県庁は岩槻に引っ越しせず、一時的な出張仮事務所が遂に後の埼玉県庁となった。

12/09/2017

「知の再発見」双書シリーズ

創元社の「知の再発見」双書シリーズです。
芸術、科学、歴史など私の興味を引くテーマで、カラー写真、図が豊富なので、何冊か購入しました。

既に、このシリーズでは
●ジャン・マリニー 吸血鬼伝説
●フランソワーズ・バリバール アインシュタインの世界
を紹介しました。

今回はこの2冊です。


●尾本圭子 日本の開国
19世紀末に来日したフランス人エミール・ギメから見た日本を紹介した本です。
ギメに同行したフェリックス・レガメの絵は明治の日本の人々、生活を知るうえでよい記録だと思います。

●ジョルジュ・ジャン 記号の歴史
古代から現代に至るまでの様々な「記号」について解説されています。


「知の再発見」双書シリーズでは、このほかに「不思議の国のアリスの誕生」があります。
不思議の国のアリスは、英語版を日本語版と比較しながら読みました。
結構複雑な言葉遊びがあちこちに見られ、すっかりファンになりました。
アリス関係の書籍はいつのまにかずいぶんたまりました。

そのうちにアリスの本もご紹介したいと思います。