10/29/2012

アンティーク絵葉書 「静岡市近辺」

今回は静岡市の絵葉書が5枚です。

①靜岡名所 御用邸

明治33年に設置され,昭和5年に廃止,静岡大空襲で焼失してしまい,跡地は現在静岡市役所として使われているそうです。

②靜岡市 停車塲前通り

これは今の静岡駅前なんでしょうか?写真右側には「静岡市物産陳列館」,左側には「漆器陳列場」と書かれています。左側の建物は交番でしょうか?

③靜岡名所 淺間神社大鳥居

静岡浅間神社は,静岡市街地に接する賎機山(しずはたやま)の麓に鎮座されています。インターネットで鳥居の写真を見つけることができました。絵葉書が白黒なのでよくわかりませんが,今も,この当時のまま残っているように見えます。

④靜岡 賤機山ヨリ市街ノ眺望

「賎機山 眺望」と検索すると,現在の賎機山からの眺望を見ることができます。どの方向を眺めているのかわかりませんが,思ったほど雰囲気は変わっていませんでした。山の上から眺めると,大きなビルも比較的小さく見えるのでしょうね。カラー写真だったらもっと緑が目立つのかもしれません。

⑤靜岡 中藤屋旅舘(電話三百十八番)

3階建の立派な旅館です。ネットで名前を調べましたが静岡付近では見つかりませんでした。


現在の同じ場所からの写真と比べてみたいです。静岡市に詳しい方、何か情報を頂けると嬉しいです。

10/28/2012

アンティーク絵葉書 「横濱野澤屋呉服店」

今回の絵葉書は横濱野澤屋呉服店発行のものです。

野澤屋呉服店は横浜市にあった老舗デパートです。
残念ながらすでに閉店となってしまいましたが,この絵葉書を発行した当時はハイカラな街横浜のあこがれのお店だったのでしょうね。

絵葉書には記念スタンプ(?)が押されていて「峩山碩禪師大遠忌紀」と書かれています。遠忌とは,辞書を引くと「仏教諸宗派で、宗祖や中興の祖などの五十年忌ののち、50年ごとに遺徳を追慕して行う法会」とのことです。
日付は「9.4.1-15」となっているので大正9年でしょうか?(それとも昭和9年?)

写真には「大本山總持寺佛殿」「野澤屋呉服店」が写っています。

總持寺は横浜市鶴見区の曹洞宗の大本山の總持寺だと思います。
總持寺と野澤屋との関係はよくわかりませんが,もともと野澤屋創業関係者とのお付き合いがあったのか,それとも野澤屋を催事場として總持寺大遠忌に関する展示会などを開催したのかもしれませんね。

1枚の古い写真に写っている情報を頼りに調べていくのは,結構楽しいものですね。
私のブログをご覧になって,もし何かご存知の方がいらっしゃったらぜひお知らせいただけると嬉しいです。
一人ではなかなか調べても中途半端で終わってしまい,ちょっとモヤモヤ感が残ってしまいます。


アンティーク絵葉書 「夕張町 北炭」

絵葉書まだまだあります。
今回は北海道夕張です。大正から昭和初め頃の町の様子と北海道炭礦汽船(北炭)の施設などの写真9枚です。

①夕張町本町一丁目
②夕張町本通五丁目表通り
③夕張町本町三丁目
④夕張町本町五丁目西裏通り
⑤炭礦汽船會社夕張礦發電所(電壓三千三百ウオルリ)
⑥炭礦汽船會社夕張礦炭層露頭廿四尺層實寫
⑦炭礦汽船會社夕張礦炭層露頭十二尺層實寫
⑧炭礦汽船會社夕張礦斜坑(社光)ノ上白糸ノ瀧
⑨夕張炭山第一礦最新式撰炭機塲外部

①~④は町のメインストリートを写したもの。当時はシャッタースピードが遅かったんでしょうか?姿が霞んでしまっている通行人が見受けられます。
ところどころ判読できる文字があります。商店や医院の名前,看板の文字など。当時のお店や医者が今でも残っているかな,と思ってネットで調べてみましたが,今回は見つからなかったです

⑤~⑨は北炭の炭鉱や自家発電の施設,炭鉱近くにある白糸の滝などの写真です。白糸の滝の写真はネットで現在の状況を見ることができました。当時と滝の姿はほとんど変わっていないように見えました。
炭鉱施設は現在ほとんどその面影は失われているようで,当時の姿と比べることはできませんでした。

それにしても,なんで夕張の絵葉書が自宅の物置にあるのかはわかりません。


③夕張町本町三丁目


⑥炭礦汽船會社夕張礦炭層露頭廿四尺層實寫


⑤炭礦汽船會社夕張礦發電所(電壓三千三百ウオルリ)
「三千三百ウオルリ」って「三千三百ヴオルト」のことでしょうか?



⑧炭礦汽船會社夕張礦斜坑(社光)ノ上白糸ノ瀧

どの写真もモノクロですが,それが石炭の黒さを一層際立たせているような感じがします。

10/27/2012

アンティーク絵葉書 「山梨の昇仙峡」

先日のブログでご紹介しましたが,物置から古い絵葉書が出てきました。

同じ仲間ごとに整理してあるわけではないので,まず,分類して,スキャンして,それで,2,3日前に買ってきたはがき用のポケットファイルに保存することにしました

さて,今回ご紹介するのは,山梨の昇仙峡の絵葉書で,全部で8枚あります。撮影されたのがいつ頃なのかはわかりません。

私は昇仙峡に行ったことがありませんが,現在の様子との違いをインターネットで検索して比べてみると,歩道がアスファルトに整備されていなかったり,観光客が和服姿だったりで,時の経過を感じることができます。しかし,大自然そのものはほとんど変わっていませんね。

はがきの宛名を書く面には「郵便はかき」「UNION POSTAL UNIVERSELLE. CARTE POSTALE」と印刷されています。

写真は白黒で,いずれの写真も楕円形にトリミングされていて,そのの下に写真の説明が書かれています。

いずれのはがきにも「甲府市柳町宮井商會製」と書かれています。柳町という地名を地図で探しましたが見つかりませんでしたが,インターネットで検索すると,「民芸・観光・その他製品」のジャンルで甲府市内に宮井商会という会社が見つかりました。
観光関連の業務をされているということですから,この絵葉書も作られたのではないかと思います。

①(甲州御嶽)長潭の下流
②(甲州御嶽)昇仙橋
③(甲州御嶽)富士石及轆轤瀧
④(甲州御嶽)覺圓峰
⑤(甲州御嶽)石門
⑥(甲州御嶽)仙娥瀧
⑦(甲州御嶽)浮石及雪紅瀧
⑧(甲州御嶽)和田峠の富士


④(甲州御嶽)覺圓峰




⑥(甲州御嶽)仙娥瀧



⑦(甲州御嶽)浮石及雪紅瀧

10/23/2012

古い絵葉書がたくさん出てきました

例によって物置の片づけをしていると茶色い紙に包まれた物が出てきました。



結構古い包装紙ですが,これは今でも営業を続けていらっしゃる北浦和の「モリ商会」のものです。
この写真では見えませんが,「モリ商會 電話浦和二二九番」と書いてあります。電話番号を見ただけでもかなり前の物ですね。

ちなみにインターネットでモリ商会さんの沿革を調べてみますと…

大正10年 東京新橋に果実店を開店
大正12年9月1日 関東大震災
        川口に避難して洋品店を開店
昭和3年3月27日 浦和に移転
        合資会社モリ商会を設立
        第二次世界大戦 激化により休業
昭和23年   北浦和にて衣料品店を開店
昭和57年    浦和のコルソ店を開店
昭和62年    武蔵浦和店を開店(現在閉店)
平成21年   大宮サティ店開店

ということですので,とっても歴史あるお店です。(実は約35年ほど前,まだ私が高校生の頃,体育着や運動靴はモリ商会さんで買いました)

さて,包みを開いてみますと,中には古い絵葉書が入っていました。



これから1枚1枚の絵葉書に何が写っているのか調べてみようと思います。興味深いのがありましたら,このブログでご紹介します。
続きはまた…

10/14/2012

市長會記念写眞

今日ご紹介するのは「市長會記念写眞」です。2枚あります。
2枚とも私の祖父が写っていますが,市長だったわけではありません。当時川口市役所(埼玉県)に努めていたので同行させてもらっていたのだと思います。

2枚の写真とも日付と場所が記載されていませんが,写っている風景や写真と一緒に保存してあった封筒などからある程度推測できます。

(今後,時間があるときにでも,もう少し突っ込んで調べてみたいと思いますが…)

ところで「市長會」って何?
全国市長会のHPからその沿革を引用しますと,以下の通りでした。

 明治22年4月1日、「市制町村制」の施行と同時に全国に31市が誕生しました。 明治31年5月18日、岐阜市において関西各市の代表が集った際、関西各市聯合協議会の設置が決定され、毎年1回会議を開催し、諸問題について協議することとされました。 この関西各市聯合協議会が全国市長会の発祥です。その後、毎年1回、各都市の持ちまわりで会議が開かれました(明治37、38年は日露戦争のため開催されず)。

上記の「関西各市聯合協議会」が、「全国市長会」になるまでの変遷は次のとおりです。

 日露戦争後の明治39年11月に奈良市で開かれた第7回会議において、全国の市(北海道と沖縄を除く)を会員とすることとし、その名称が全国各市聯合協議会に改められました。

 大正3年11月に京都市で開かれた第14回会議では、北海道、沖縄の各区(北海道、沖縄 では市制でなく区制が施かれていた)についても会員とするため、名称が全国各市区聯合協議会に改められました。

 その後、北海道、沖縄でも市制が施かれたことから、大正12年10月に静岡市で開かれた第23回会議において、名称が再び全国各市聯合協議会に改められました。

 昭和5年5月に宇治山田市(現在の伊勢市)で開かれた第30回会議では、大幅な機構改革を行うとともに、名称を全国市長会と改め、今日に至っています。



それでは,1枚目の写真です。



写真に「第三拾六回全國市長會記念撮影」と書いてあります。前述の全国市長会のHPの情報から推測すると昭和11年に開催されたようです。
また,写真を包んでいた封筒には「川口市役所御中 市長會記念写眞在中二葉 富山市役所」と記載されており,また,写真そのものにはエンボス加工で「富山寫眞舘 島川義雄」と押されています。
今も写真屋さんとして続いているのかどうかはわかりません。

次に,2枚目の写真です。



写真には特に年代を特定する情報は記載されていませんが,写真を収めていた封筒に手書きで「市長会議記念写真在中 高知市」と書かれており,また,封筒そのものには「高知市本町下二丁目 溝淵寫眞舘 電話一七七七番」と印刷されています。

前述の全国市長会のHPからは高知市で開催されたがいつなのかはわかりません。
今度,全国市長会の事務局さんにでも問い合わせてみたいと思います。

さて,この場所はどこなのか?ということで,中央の銅像を拡大してみると「板垣退」という文字が何とか読み取れました。
そこで高知市,板垣退助像で検索すると「高知公園」であることがわかりました。
(高知の方なら見ただけでお分かりだと思いますが,私は高知に行ったことがなく…)

でも,今の銅像は戦時中の昭和18年に金属回収のため供出されることになり、昭和31年に再建されたもののようです。
この写真に写っているのは大正12年12月5日に除幕されたものということですので,高知市開催の全國市長會はそれ以降に開催されたのは確かなようです。
(ところで板垣退助像の新旧の写真を比べると今のほうが右手を高く上げて指さしているように見えます。)

インターネット検索を使うとわずかな手がかりでも古い写真のことがわかるものですね。