6/29/2013

六辻尋常小学校開校5周年記念写真

久しぶりに古絵葉書です。

今日は私の母校である六辻尋常小学校(現:さいたま市立南浦和小学校)の開校5周年記念のスタンプが押された絵葉書を紹介します。

まずは,六辻尋常小学校の歴史から…

明治7年4月1日:辻村和光院に辻学校として創設
明治36年5月18日:現在地に校舎を建設し開校
昭和9年4月6日:別所分校開校(1・2年児童収容)
昭和22年4月1日:浦和市立六辻小学校と改称
昭和32年11月1日:浦和市立南浦和小学校と改称、校歌制定
昭和43年4月1日:浦和市立辻小学校開校(児童477名移籍)
昭和47年4月1日:浦和市立文蔵小学校開校(児童559名移籍)
平成13年:さいたま市誕生によりさいたま市立浦和小学校と改称

明治36年5月18日に開校して,明治41年5月18日の5周年記念の日に先生,児童みんなが揃って校舎の前で記念撮影をしたということでしょう。児童はみんな着物ですね



実は,私の父方の祖父母,父も同じ小学校を卒業しています。
祖母は明治31年12月生まれでしたので,明治41年5月と言えば9歳で4年生の頃。だからきっとこの中に写っているのだと思います。
祖母は平成の初めに亡くなりましたが,この写真について話を聞いておけばよかったな,と思います。

この写真でもうひとつお話したいことがあります。
それは,後ろに写っている木造の校舎です。

実は,私の小学校1年生の時の教室はこの校舎でした。
画面から切れていますが,横長に5つの教室があって一番左端の教室でした。

昭和41年11月7日の午前中,確か音楽の授業で木琴をたたいていた記憶がありますが,轟音とともに床が傾きました。
担任の先生が廊下に飛び出して様子を確認すると,「何も持たなくていいからすぐに校庭に逃げなさい,靴は履き替えなくていいから!」と叫んだような気がします。

校舎の下には,校舎と直交するようにJR武蔵野線(当時は国鉄)が通っています。当時はまだ開通前でトンネル工事をしていました。
それが落盤して,横長の校舎の真ん中で二つに折れるように崩れ落ちたのです。

児童は全員無事避難,二つ折れの所には教壇があってそこに立っていた女の先生が下に落ちたのですが,トンネルの中にいた工事関係者にすぐに救助され,軽傷で済みました。
奇跡としか言いようがありません。

当時の新聞(埼玉新聞昭和41年11月8日朝刊1面)を紹介します。



絵葉書と同じ校舎であることがおわかりいただけると思います。

私は,南浦和小学校に改称された後のわずか6年間を過ごしただけでしたが,1年生の時の校舎の陥没事故,3年生になる時に辻小学校開校
に伴い,学校が二つに分けられ,卒業時にも文蔵小学校が開校しさらに二つに分けられるという,130年を超える同小学校にとって激動の6年間だったと思います。(ちょうど埼玉県南部の人口が急上昇した時期でしょうか。)

でも,もっと早くこの絵葉書があることを知っていれば,祖母や父にたくさんのことを聞けたのに,と思うとちょっと残念です。

6/21/2013

GHQ「焚書図書」

半年以上ご無沙汰してました。

さて,今日はなんやらすごいタイトルですが,ワック出版の月刊誌「歴史通」5月号に,「GHQ『焚書図書』個人蔵全公開」というカラー特別企画が掲載されていました。

戦後,GHQ(連合国軍総司令官総司令部)により「焚書」処分にされた本を集めた方のコレクションが紹介されたものです。

それを読んでいたら,どこかで見かけた本が…

表紙の半分がオレンジ色で,タイトルが「大東亜の建設」。

そうです,2年前,2011年6月25日のこのブログで紹介した本でした。(写真が掲載されていますので,ぜひご覧ください。)

当時は,この本がそんな焚書でGHQから没収されるような本であるとはつゆ知らず,ただ,表紙を撮影して紹介しただけでした。

GHQが没収しなければならないほど過激な内容なのか,一度読んでみようと思います。