7/31/2016

東芝自動式電気釜 取扱説明書(昭和30年代)

先日の「新日本電気(NEC)家庭電化品カタログ」に引き続き、昭和30年代の電化製品の紹介です。
東芝 自動式電気釜RC-10K型(1.8リットル炊600W)の取扱説明書です。



両親が結婚したが昭和34年でしたので、その頃購入したのでしょう。
子供の頃、母がこの電気釜からご飯をよそう姿がくっきりと記憶に残っています。
東芝のHPを見ると、自動式電気釜を日本で最初に開発したのは東芝だそうです(昭和30年にER-4型として発売)。

「4年後には日本の全家庭の約半数にまで普及し、総生産台数も1,235万台を記録した。」とあるので、ちょうどかなり世の中に普及してきた頃に買ったのでしょう。

ちょっとびっくりしたのが、Googleで「東芝自動式電気釜 RC-10K」で検索したところ、この電気釜を修理したという方のブログがヒットしました。
「テレビドラマ用にテレビを4台修理の為にお預かりした際一緒にお預かりしたのが今回の東芝の電気釜」とありまして、ピカピカのRC-10Kが写っていました。

約60年前の家電製品が、テレビドラマ用とはいえ、現物が残っているとは、なんだかうれしくなりました。

ちなみに、その方のブログには、配線の修理のために電気釜の底のカバーを取り外した写真がアップされていましたが、そこにはちょうど炊きあがりの調整するツマミがついているようで、取説にも同じような写真が掲載されていました。



自動式電気釜ができるまでは、かまどの火の加減を見ながら炊きあがるまでずっとそばについていなければならず、母や祖母は、家族が起きるよりもかなり早く起きてご飯の準備をしていました。
しかし、自動式電気釜が我が家にやって来たことで、その苦労が大幅に削減されたことでしょう。
この取説にも、そのメリットがしっかりと書かれていました。



私のブログでも何度か書きましたが、両親、祖母の時代に比べて、私たちはなんと便利な時代に生まれてきたのだろうと思います。感謝です。

7/25/2016

昭和36年 新日本電気(NEC)家庭電化品カタログ

新日本電気(New Nippon Electric Company Ltd.)発行の「NEC 家庭電化品」のカタログです。
文字が切れていますが、一番下に「36-3-1」と書かれているので、おそらく昭和36年発行のカタログでしょう。
私が1歳になったばかりの頃です。



表紙を開くと、「愛の労働にかわるもの」とあります。


全文を紹介します。
主婦の労働には報酬がありません  したがって国民所得の中にも換算されていないのです  世界中の主婦は報酬もなく黙々と働いてきました  そして今もそれは変りがないのです  主婦はただ純粋に夫の栄光と子供の成長をみまもってきたのでした
しかし時代は伸展しました  主婦の労働の内容はおなじでも消耗されるエネルギーは激減したのです  電気エネルギーさらにはエレクトロニクスが家庭生活の合理化のために驚異的な飛躍を遂げたからです
以下に掲げるNEC家庭電化品もそんな家庭合理化路線の上にのった製品です  ぜひご愛用ください

戦後十数年、まさに世の中はこういう状況だったんでしょう。
「電化」を目指して国民みんなが頑張っていた時期だったと思います。
今の生活環境の素晴らしさを本当に感謝したいと思います。
我が家にも、こういう製品が一つずつ増えていったこと、その時の両親のうれしそうな顔がおぼろげながら記憶に残っています。

●トランジスタラジオ

まさにトランジスタの時代だったのですね。
私が物心ついたころは、真空管ラジオだったです。

●テレビ受像機

4本脚の白黒テレビでした。
ブラウン管から出る電磁波が体に良くないからと言って、画面の前にブルーの重たいガラスのフィルターのようなものをつけていたような気がします。

●カラーテレビ受像機

昭和36年にすでにカラーテレビが販売されていたんですね。
当時の価格で50万円を超えています。
これは庶民には買えませんね。
ちなみに我が家にカラーテレビが来たのは、中学2,3年の頃、昭和49年~50年頃だったような気がします。

●ステレオサウンドビジョン

我が家にステレオが入ったのは私が高校生の頃だったような気がします。
それまでは、レコードはモノラルのポータブルプレーヤーでした。
(ハンドルがついた手回しの蓄音機もありました。)

●テープレコーダー

我が家に録音機器が来たのは、私が中学生の時、英語の勉強のためといってカセットテープレコーダーを買ってもらった時だと思います。
既に他界した祖母にマイクを向けて、「いやだよ、はずかしいよ。」という祖母の声が入ったテープも、その後重ね録りしてしまい、今はありません。
しかし、私の心にはしっかりと記録されています。

●真空管

さすがに真空管はもう製造していないのでしょうね。
ちょうどトランジスタに世代が変わり始める時期だったのだと思います。

●電気暖房器具

電気あんかですね。
我が家にもありましたが、子供は湯たんぽでしたね。
風邪を引いたりすると、母が布団の中に入れてくれたような気がします。

●自動電気釜

今の炊飯器と違い、どのメーカも白でした。
容量が「リットル」単位で記載されているのがちょっと驚きです。
当時どころか今でも炊飯器の目盛は「合」単位で振られているのに!

●電気冷蔵庫

この頃は1ドアタイプでした。
右のページのように、ドアを開くペダルがついていたような気がします。

●電気掃除機と電気洗濯機

掃除機は、基本的に形状はあまり変わっていないような気がしますが、洗濯機はかなり変わりましたね。 ハンドルをグルグル回して、ペッタンコになった洗濯物がかごに出てくるのが懐かしいです。

そして、カタログには工場での製造の状況が紹介されています。
「オートメーションによる量産化」という言葉が、当時を物語っていますね。

7/24/2016

絵はがき JAPAN TEA

年代はよくわかりません。
日本を訪れた外国の観光客向けの絵はがきで、日本茶の紹介用の絵はがきだと思います。
タイトルは "JAPAN TEA" で5枚組です。

絵はがきの包み紙の裏表紙に世界地図が描かれていますが、"PRINCIPAL CONSUMER-COUNTRIES OF JAPAN TEAS" (日本茶の主な消費国)として"OKINAWA"(沖縄)と書かれているので、沖縄返還前に発行されたものでしょう。



日本の本州の脇には、"SHIMIZU"と書かれています。
ということは、静岡県清水市のお茶の紹介なんですね。

中の写真は、写真に着色したものなのか、写真ではなく絵なのか、よくわかりませんが、非常にレトロな印象が漂っています。



●Mother is serving tea to her children


●Japanese tea set and tea blossom


●Tea ceremony


●Tea plucking doll



そして、日本茶の効能が包み紙の裏側に書かれています。


日本茶は最もすっきりして衛生的な飲料、日本茶を飲んでいつまでも若く長生きしましょう!

7/10/2016

絵はがき 勝山勝景

観光の内房 勝山勝景絵葉書 (房州勝山町 板倉写真館発行)



一応、カバーが残っていますが、中は1枚のみ。
高台からの市街地の眺望です。


Google Mapを見ると、大黒山展望台という展望台があります。
撮影された当時に展望台があったかどうかわかりませんが、景色の良い場所だったことは今も昔も変わらないでしょう。

しかし、この写真のように海の向こうに陸地が見えるところというとどのあたりなんでしょうか?
Google Mapをさらにじっくり見ていると、大黒山展望台からの景色を写した写真がありました。
ちょうど「展望案内図」も写っていますが、そこに書かれている右上の陸地(たぶん房総半島の勝浦から少し北の所)と稜線が絵葉書とよく似ています。(もちろん写真そのものもそっくりですが)
今度、展望台に行ってみたいですね。

ところで、この絵葉書の発行された時期というと、宛名面の上部が右から「郵便はがき」と濁点付きの「はがき」となっていることから、昭和8年から終戦までの間と推定されます。

ネット検索すると、絵葉書を撮影、発行した板倉写真館は今でも営業を続けられているようです。
もう、2代、3代目の方に引き継がれてるのでしょうか。
素晴らしいですね。

絵はがき 相模湖

自然美と近代美 相模湖 LAKE SAGAMI



左から右に文字が書かれているので、戦後発行の絵葉書です。
タイトルの「近代美」というのは、ダムと発電所の景観を指しているのだと思いますが、後から着色したようなレトロな感じな絵はがきには懐かしさを感じます。
全8枚から何枚かをご紹介します。

●電源相模ダムの風景


●近代美を誇る相模ダムの全景


●嵐山より大人造湖相模を全眺す


●電気科学館全景/電気科学館内部のパノラマ


相模湖は人造湖です。ネットで「相模湖 電気科学館」で検索すると、相模湖周辺の写真や沿革がまとめられたページがヒットしました。それによれば、
1947年(昭和22年):相模ダム(相模湖)完成 (6月14日竣工式)
1952年(昭和27年):相模湖電気科学館開館
1989年(平成元年):相模湖電気科学館閉館(37年の歴史に幕) 2000年(平成12年):神奈川県立相模湖交流センター・相模湖町立相模湖記念館開館(相模湖電気科学館跡地)
電気科学館はもう無くなって、今は新しい施設ができているんですね。

発電所については、神奈川県のHPで詳しく知ることができました。

やはり設備の劣化が進んだため、昭和の終わりから平成の初めにかけて大規模な設備更新が行われたようです。
建物の雰囲気は建設当時のものとすごく似ていますが、よく見ると違いますね。
ツートンカラーの上下が逆になってます。

私は相模湖に行ったことがありませんが、Google Mapなどで今の風景と絵はがきに写った景色を比べることができるので、楽しいですね。

7/03/2016

原子力平和利用の栞/原子力平和利用博覧会

古いパンフレットが出てきました。
「原子力平和利用の栞」というタイトルで、全32ページものです。
(これは、パンフレットを開いて表と裏の表紙を写したもの)


中を見ると、「原子力平和利用博覧会 共催 USIS・読売新聞社 後援 東京都」とあり、米国大使館文化交換局長 参事官 ジョゼフ S.エヴァンス氏と読売新聞社社主 正力松太郎氏のまえがきがあります。


これを読むと、原子力を平和の目的のために利用するための理解を促進させるためのキャンペーンのための博覧会のようです。
このパンフレットには、共催、後援は書かれていますが、開催時期、場所などは書かれていません。 そこでネットで「原子力平和利用博覧会」を検索すると、Wikipediaでヒットしました。
原子力平和利用博覧会(げんしりょくへいわりようはくらんかい)は、1955年から1957年にかけて日本各地で開催された、平和のための原子力を主題とする博覧会である。1953年に発足した対外宣伝機関アメリカ合衆国広報文化交流局(United States Information Service ; USIS)と、読売新聞社など各地の新聞社とが共催し、延べ約260万人が来場した。
Wikipediaによれば、
1955年11月1日-22日千代田区日比谷公園(来場者:36万人、共催:読売新聞社)を皮切りに、
 名古屋市愛知県美術館(37万人、中部日本新聞社)、
 京都市京都市美術館(15万人、朝日新聞大阪本社)、
 大阪市大阪アサヒアリーナ(18万人、朝日新聞大阪本社)、
 広島市広島平和記念資料館(11万人、中国新聞社)、
 福岡市福岡スポーツセンター(16万人、西日本新聞社)、
 札幌市中島スポーツセンター(21万人、北海道新聞社)、
 仙台市仙台市レジャーセンター(17万人、河北新報社)、
 茨城県水戸市水戸総合体育館(23万人、いはらき新聞社)、
 富山県高岡市高岡古城公園(約30万人)
とまさに日本全国を長期にわたってまわったようです。
(今回紹介したパンフレットはUSIS、読売新聞社共催、東京都後援ですので、1955年11月の日比谷公園での開催のパンフレットでしょう。)

まだ戦争が終わって10年くらい、広島、長崎の原爆の記憶がつい昨日のことのような時期に、広島でもこの博覧会が行われていたのは、意外でした。
原子力が爆弾以外に工業、医学、農業、動力、交通機関、その他考古学、美術、気象など、いろいろな分野に応用できるということを伝えることがこの博覧会の一番の目的だったのでしょう。
しかし、現在、原子力発電に非常にネガティブな朝日新聞や中日新聞がわずか60数年前にアメリカ政府(USIS)と共催でこんなキャンペーンを行っていたというのも、意外でした。
実際の博覧会の様子を写した写真はパンフレットに掲載されていませんが、イラストが掲載されていましたので、紹介します。

7/02/2016

昭和7年版「川口町勢要覧」

これまで昭和8年発行「市制施行記念 川口市勢要覧」昭和37年の「川口市 市制施行30周年パンフレット」を紹介しましたが、今回は川口が市制に移行する前の昭和7年版「川口町勢要覧」です。

川口市は昭和8年4月1日に川口町・横曽根村・南平柳村・青木村の1町3村が合併して誕生しましたので、その前年の川口町最後の状況が取りまとめられた資料です。





以前、地券之証32枚が出てきて、その住所が埼玉県和光市内でしたので和光市教育委員会生涯学習課に寄贈いたしました。
川口市関係の資料はまだいくつか出てきそうですが、ある程度まとまったら、川口市に寄贈してもいいかな、と思っています。
もし、歴史的価値のあるものでしたら、私が持っているよりも、しっかりした方に良い環境で保管していただいた方がよいと思います。