7/22/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その1)

埼玉評論は埼玉評論社という出版社が発行していた月刊誌です。
昭和8年に創刊され、これは昭和13年4月1日発行の特集号です。
通常は定価25銭のところ、この特集号に限り3円ということですので、かなりの豪華本なんでしょう。
目次を見ると全162ページとなっていますが、実際はその後ろに80ページくらい広告が掲載されているので結構なボリュームです。

冒頭の埼玉評論社主幹小野龍之助の「本誌発刊の趣旨」には、次のように書かれています。
我浦和が、県下他どの町にも見られぬ特殊な姿を持っていることは、何人の眼にも一目瞭然である。県庁所在地であり、教育都市と言い、住宅町と言う。
これをして浦和の三大特徴と言えようが、いずれも非生産的欠点を持つ替りに文化的発達を約束する長所を有する。
(中略)
更に浦和は今一つの黎明を返えんとしている。そのことに就いて本誌本文中書く所にふれてあるからここにくどくどしく述べぬが、即ちこの地を取巻いて素晴らしい勢いで近代的大工業が開発されんとしていることである。
つまり県庁所在地、教育都市、住宅町と言う三大特徴の上に工業都市の名が更に一枚加えられんとしているのである。
それが与える諸種方面への影響は言うまでもない。この期に処するに、適正誤またざる方策が得られたはじめて浦和の発展は無限と信じる。
専門家をわずらわして浦和の過去を知り、幾多諸機関及び有識者等を動かして浦和の現勢全貌を伝え、同時にその将来に対する諸覧の意見を紹介したこの一本が必ずやその参考となることを信ずるのである。
当時の浦和市は今は大宮市、与野市、岩槻市と合併しさいたま市となりましたが、今でも県庁所在地、教育都市、住宅都市というのが 旧浦和市の一般的なイメージです。
私はこのイメージに子供のころから大変満足していますが、昭和13年頃、世界大戦直前の日本では、やはり大都市の一員として認められるには「工業都市」という証が重要だったのかもしれません。

そして、「編集後記」。
前からあった意見だったが、去年の暮あたりから再び浦和、与野、大宮を合併して埼玉市を作れと言う与論が今度は可成り現実性を帯びて叫ばれだした。そこで我々はどうせなら川口、鳩ケ谷、蕨も加えて大埼玉市を作る可きだと唱えた。それかあらぬか、浦和、与野、大宮説が消えて大埼玉市建設案が真面目に考えられつつある。 (以下略)
驚くことに、さいたま市構想というのが戦前からあったんですね。
この本は中身を捲っていくと結構興味深い記事があります。
(その2)以降で少しずつ紹介していこうと思います。

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