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10/19/2022

駅伝のコース図

駅伝のコース図と思われる資料が出てきました。わら半紙にガリ版刷りです。

生前、父が旧制浦和中でマラソンや駅伝の選手だったと言っていましたので、その当時(昭和20年3月に卒業)のものだと思いますが、何の大会なのかはわかりません。

 

【スタート】大宮市 官幣大社氷川神社前
   ↓(第1区 8.64km)
【第1中継点】上尾町 国民学校入口
   ↓(第2区 4.00km)
【第2中継点】桶川町 東電出張所前
   ↓(第3区 8.32km)
【第3中継点】鴻巣町 国民学校入口
   ↓(第4区 4.48km)
【第4中継点】東吉見村 氷川神社前
   ↓(第5区 7.68km)
【第5中継点】松山町 縣社箭弓神社前
   ↓(第6区 10.56km)
【第6中継点】坂戸町 角屋旅館前
   ↓(第7区 4.80km)
【第7中継点】名細村 国民学校前
   ↓(第8区 6.00km)
【第8中継点】川越市 縣社氷川神社前
   ↓(第9区 11.10km)
【第9中継点】五味貝戸バス停留所前
   ↓(第10区 7.20km)
【ゴール】大宮市 官幣大社氷川神社前

全部で72.78km。距離からすると結構立派な大会ですね。きっと道路も舗装されていなかったのだと思うので、走るのは大変だったろうなと思います。

現在の道路に置き換えてみました。


中継点は、例えば「国民学校」などは当然今はありませんので、だいたい付近の創立が古い小学校などに置き換えました。

第2中継点、桶川町の東電出張所は東京電力ではないですね。終戦前なので東京電燈でしょうか?
Wikipediaで調べてみると「東京電燈自体は9配電会社設立に伴い、1942年(昭和17年)4月1日をもって関東配電へ吸収された」とありますので、ちょうど名称が変わった頃で、まだ古い名称が使われていたのかもしれません。

第6中継点の坂戸町角屋旅館は残念ながら今は無いようです。
ただ、角屋旅館ではなく旅籠角屋で検索すると、結構ヒットして坂戸駅北口から徒歩5分ほどの日の出町交差点の角にあったことがわかりました。

いずれ機会があれば、父が走ったであろうコースを巡ってみたいと思います。
もちろん車でね(^^;)


6/28/2020

昭和4年敬老状

久しぶりの書き込みになります。

昭和4年(1929年)4月20日、六辻村(現在の埼玉県さいたま市南区の一部)教育会長から高齢者慰安会において曽祖父に喜寿を祝って贈られた「敬老状」です。


曽祖父は昭和14年に87歳で亡くなったそうですが、昭和初期の時代では、かなり長寿だったと思います。

10/20/2018

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)

明治時代の地図が出てきました。
新訂 埼玉県管内全図」で明治13年3月30日発行です。
明治13年(1880年)といえば、私が生まれる80年前で、私の祖父が生まれるよりも前です。結構見どころ満載ですね。

まず、明治13年当時の埼玉県の状況をWikipediaで押えておくことにしましょう。
  • 慶応4年(1868年) - 6月19日、忍藩士の山田政則が武蔵知県事に就任、旧幕府領を管轄する。
  • 明治2年(1869年) - 1月10日、山田政則知県事が宮原忠英に交代。1月13日、宮原知県事の管轄地域に大宮県を設置し、県庁は東京府馬喰町に置かれる。9月29日、県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。
  • 明治4年(1871年) - 7月14日、廃藩置県を受けて藩領に川越県忍県岩槻県の3県が誕生。11月14日、忍県・岩槻県・浦和県の3県が合併して埼玉県が誕生(足立郡・埼玉郡・葛飾郡の一部。現在の東部地域に相当)。同日、川越県は品川県の一部を吸収して入間県となる(現在の西部地域・北部地域・秩父地域に相当)。埼玉県の県庁所在地は埼玉郡岩槻町(現さいたま市岩槻区)とされたが、適する建物が無く、旧浦和県庁を流用する形で浦和宿(現さいたま市浦和区)に県庁が置かれた。入間県の県庁は川越城に置かれた。
  • 1873年(明治6年) - 入間県が群馬県と合併し熊谷県となる。熊谷県の県庁は熊谷駅(現熊谷市)に置かれた。
  • 1876年(明治9年) - 熊谷県は解消され旧入間県の地域は埼玉県と合併、現在の埼玉県が成立
  • 1883年(明治16年)7月28日 - 日本初の私鉄「日本鉄道」(東北本線・高崎線上野駅-熊谷駅間)が開業し、浦和駅・上尾駅・鴻巣駅・熊谷駅が開業。

まず表紙です。
12×18cmのボール紙2枚をそれぞれ一方の長辺の両端、中央を紐で結び、見開き本のようにした台紙の間に、この赤い一枚紙の表紙と折り畳まれた地図が挟まっています。
編集は諸井興久、根岸武香。
ネットで調べると、お二人とも埼玉県の郷土史を語るうえでは欠かせない名士です。
Wikipediaで当たってみると…
幕末期の当主であった諸井五左衛門興久は、1889年(明治22年)の町制施行の時、初代本庄町長に就任した、とあります。
また、根岸武香は、明治12年(1879年)に埼玉県議会開設と共に県会議員に選出されて副議長、その後第2代議長、第10代議長を務め、明治27年(1894年)には貴族院多額納税議員に選出された、とあります。また、吉見百穴の発掘に参加し保存に努めると共に、これを世間に紹介された、とあります。


地図の全体像です。
埼玉県管内全図ではありますが、今の埼玉県よりも随分広い範囲が描かれています。
南は横須賀、逗子の境界当たりまで。
西は秩父、北は群馬との県境、東は江戸川沿いの千葉との県境まで。
江戸川と利根川の間の千葉県野田市の一部も含まれています。
東京湾はまだ埋立て前で、鉄道は芝~高輪~品川あたりで海の上を通っています。
海岸線は築地の辺り。佃島や石川島、お台場は海の中ですね。
道路のように見えるのは川ですね。新宿から西の方角へまっすぐ続くのは玉川水道(玉川上水)です。

これは、地図の右下に書かれている凡例と奥付です。
凡例には今の時代には無くなってしまったものが書かれています。
国境、原野、鎮台、渡舟など。
鎮台はWikipediaによると、
鎮台(ちんだい)は、1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位である。
ということで、設置期間が僅か20年弱ですので、これが記載されている地図というのは珍しいのかもしれません。
また、原野というのも、開発しつくされた現在では見られませんね。
埼玉北部の現在の東松山市付近、所沢市北部~三芳町~川越市南部、小平市~立川市~福生市付近が原野の記号で表されています。

また、郵便局という二重枠のしるしがあります。
地図を見てみると、例えば私の住むさいたま市周辺では、川口、戸田、蕨、浦和、與野(与野)、大宮といった地名がこの二重枠の中に書かれています。
鉄道の駅と一瞬錯覚しましたが、これ、郵便局のある町、村を示しているようです。

いずれにしても、地名が、「郵便局」「宿駅」「町村」「枝村」という区分で表現されているのは面白いです。

奥付には、編集人の他、出版人、発売の名前が書かれていますが、住所の他身分(平民)まで書かれています。これらの方のお名前はネット検索すると当時の多くの書物の発行人、販売人としてヒットします。
欄外に小さな文字が見えるでしょうか?
「東京 本所 山中銅鐫」とあります。「鐫」という文字は初めて知りましたが、彫るという意味でした。銅版の地図なんですね。

少し長くなったので、今回はここまでにします。

8/15/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その5:最終回)

昭和13年4月発行の埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」の第5回目です。このシリーズはこれで最終回とします。
オッと目にとまったところを順不同で書いていきます。

●浦和連合青年団・浦和連合女子青年団
その設立の経緯などが記されています。事務所が第一尋常小学校内に置いたとあります。青年団の活動そのものについてはこの本には特に記載はありませんが、以前、昭和11年9月1日発行 埼玉縣聯合男女靑年團 修養指箴(修養指針)をご紹介しましたのでそちらをご覧いただけば多少ご参考になるかと思います。

●金融機関
昭和13年当時、浦和に店舗を構えていた銀行・生命保険会社です。掲載順に記載します。
【銀行】武州銀行、武州貯蓄銀行、日本勧業銀行、昭和銀行、第八十五銀行
【生保】第一生命、仁壽生命、三井生命、明治生命、日清生命、千代田生命、愛国生命、日本共立生命、安田生命、帝国生命、太陽生命、昭和生命、第一徴兵
現在はその名前が残っていない機関が多く、現在の金融機関との関係がわかりにくいですが、銀行については、一般社団法人全国銀行協会のHPの「銀行変遷史データベース」、生保は一般社団法人生命保険協会のHPの「生命保険会社各社の変遷図」で現在までの統廃合の状況がわかります。

●浦和人物鳥瞰
当時の浦和市で活躍された名士の紹介です。学歴、職歴、出自、人柄、趣味など詳しく書かれていて、自宅の電話番号や子供の名前・年齢なども書かれている方もいます。個人情報の取り扱いが厳しくなった今の時代ではここまで紹介するのは難しいでしょうね。
埼玉県知事、浦和市長、市会議員、弁護士や教育、医療、商工業など様々な分野の名士69名について24ページを割いて紹介されています。
その中でこんなところでまた見つけてしまったお名前がありました。大久保通次氏です。私のこのブログで以前「大正時代の歯の衛生の本」という小冊子を紹介しましたが、その著者が大久保歯科医院・口腔外科医院の大久保通次氏でした。文学的な序文を書かれ、また、歯みがきの啓蒙のため自費でそのような小冊子を配布するなど、素晴らしい方がいらっしゃったんだと思った次第です。大久保歯科医院の住所が「浦和町表門通」ということくらいしかご本人の情報がなかったのですが、今、ずいぶんと明らかになりました。
京北高等歯科医学校長、大久保通次氏は学校長としての人格を持つだけに同校の発展を見ている。元埼玉会館前に新築開校されたものだが、今は大宮町に移校されて爾来発展を続けている。同校は男子にて歯科医師たらんとするものは必須な学術を教授するを目的とされ、今や数百の卒業生を出して成績優秀さは氏の熱心なる賜である。
歯科医学校の校長先生もなさっていたのですね。現在大宮区に同名の歯科があり、HPを拝見すると、院長さんのおじいさまが昭和16年に開業されたとあります。埼玉評論のこの雑誌には、昭和13年の時点で既に大宮町に移ったとありますので直接の関係はないのかもしれません。

●広告いろいろ
埼玉評論のシリーズその1の冒頭に書きましたが、目次に掲載されている162ページの後ろに80ページくらい広告が掲載されています。その中からいくつか紹介します。
  • 浦和市医師会会員:医師会会員45名の診療科目、氏名、町名、電話番号が掲載されています。電話番号はたった4桁の数字が書かれているのみ。今でも続いているところもたくさんあります。内科、小児科、産婦人科、外科、皮膚科、眼科、耳鼻咽喉科、呼吸器科、泌尿科、肛門科といったお馴染みの科の中に「花柳病科」というのがありました。何となく想像はできます。
  • 浦和産婆会員:お産婆さんお一人お一人のお名前と住所が書かれています。何と驚くことに私を取り上げてくださったお産婆さんのお名前を見つけました。意外な感じもしますが、この本が発行されてから僅か22年後に私が生まれたのですから、それほど不思議ではありませんね。
  • 書籍文具紙店:須原屋書店、佃文教堂など今も営業されているお店もありますが、もう閉店してしまったお店の名前を見つけると懐かしさ、寂しさ、残念さが入り混じった何とも言えない気持ちになります。
  • 人生の別天地:これは右の写真を見ていただいた方が早いですね。今はもう残っていないでしょうね。
  • 浦和撞球場:ビリヤードですね。昭玉(警察所裏)、ウラワ(浦和駅前)、みやこ(埼玉会館内)、美枝子(東京電燈会社前)、東(八十五銀行横通)、明石(浦和公会堂前)と狭いエリアに6軒もあります。人気があったのでしょう。
  • 浦和芸妓連:14軒もあります。店の名前、電話番号、芸者さんの名前が並んでいます。そして幇間が1軒。今は浦和に芸者さんはいるのでしょうか?
  • 生徒募集広告一覧:既に紹介した浦和女子洋裁学校、宮崎裁縫高等女学校、埼玉中学校、そして大久保通次氏の京北高等歯科医学校の他に、大宮農商学校、与野農商学校が掲載されていました。Wikipediaをみると大宮農商学校は埼玉県立大宮高等学校の前身の一つとのこと。与野農商学校は当時与野町外六ヶ村立(木崎村、六辻村、土合村、大久保村、植水村、三橋村)の学校で埼玉県立与野高等学校の前身です。しかし、複数の自治体共同で学校を設立していたんですね。
  • 著名業者:これはいろいろあります。以前ブログで紹介した「洋品百貨のモリ商会」、中山道にお店を構える「浦和漬の酒井甚四郎商店」、浦和駅西口を出て左手に見える「袋物専門油屋カバン店」、旧中山道調宮神社前「石井銃砲店(今は浦和銃砲火薬店)」などはもう創立80年以上ということですよね。
ということで、昭和13年の浦和の様子を5回シリーズでお届けしました。
今では無くなってしまったものもあれば、80年以上前から姿形は変わってもずっと引き継がれて今も続いてものもある。
私のふるさと浦和にいっそう愛着が湧いてきたような気がします。


8/06/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その4)

昭和13年4月発行の埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」の第4回目です。
今回は昭和13年当時の教育機関の一覧をご紹介します。
そのうちのいくつかは当時の浦和の地図を紹介した第2回目にも触れています。
多少の重複はご容赦ください。
本に掲載順に①創立/②生徒数/③学級数/④職員数/⑤特記事項を記載します。
各校の規模がイメージできるかと思います。

浦和高等学校 (現在の埼玉大学)
 ①大正11年11月/②450名/③15学級/④67名/⑤-
埼玉県師範学校 (現在の埼玉大学教育学部)
 ①明治6年1月/②376名/③11学級/④25名/⑤-
埼玉県女子師範学校・埼玉県立浦和第二女学校 (現在の埼玉大学教育学部・浦和西高等学校)
 ①明治34年3月、明治36年4月附属小学校開校、昭和9年3月県立第二高女併置/②271名(師範学校)、99名(高女)/③8学級(師範学校)、20学級(高女)/④42名/⑤-
埼玉県立浦和中学校 (現在の浦和高等学校)
 ①明治28年6月埼玉県第一尋常中学校創立、明治34年改名/②1004名/③20学級/④44名/⑤-
埼玉県立浦和高等女学校 (現在の浦和第一女子高等学校)
 ①明治33年3月私立埼玉県高等女学校を引き継ぐ/②985名/③20学級/④43名/⑤年限5年制
浦和商業学校(市立) (現在の浦和商業高等学校)
 ①昭和2年3月/②856名/③15学級(内 一種12学級、二種3学級)/④32名/⑤-
男師附属小学校 (現在の埼玉大学教育学部附属小学校)
 ①明治7年8月/②755名/③14学級/④24名/⑤-
女師附属小学校 (現在の埼玉大学教育学部附属小学校)
 ①明治36年4月/②321名/③8学級/④10名/⑤-
浦和市第一尋常高等小学校 (現在の高砂小学校)
 ①明治4年9月/②2260名(内 尋常170、高等469名)/③40学級/④47名/⑤(生徒数の内訳が合いません)
浦和第二尋常小学校 (現在の常盤小学校)
 ①昭和2年4月浦和市(第一)尋常高等小学校の分校として設置/②1541名/③29学級/④33名/⑤-
浦和市第三尋常高等小学校 (現在の木崎小学校)
 ①明治7年5月北足立郡木崎領家村長覚院内に木崎領家小学校として創設/②811名/③15学級/④19名/⑤-
浦和第四尋常高等小学校 (現在の谷田小学校)
 ①明治6年太田窪小学校と称す/②779名/③15学級/④19名/⑤-
浦和市第五小学校 (現在の本太小学校)
 ①明治44年北足立郡木崎小学校分教場として創立/②1151名/③22学級/④25名/⑤-
浦和産婆看護婦学校(私立) (現在の高田クリニック)
 ①大正3年4月/②64名/③1学級/④4名/⑤-
昭和産婆看護婦学校(私立) (現在の石川病院)
 ①昭和5年12月/②600名(卒業生総数)/③-/④-/⑤看護婦学科1ヶ年、産婆科1ヶ年
宮崎裁縫高等女学校 (大正7年創立ですがその後の詳細がわかりません)
 ①大正7年(創立)、大正12年(学校編成)、昭和6年(文部大臣甲種認可)/②25名/③6学級/④13名/⑤-
浦和洋裁縫女学校 (現在の学校法人小松原学園)
 ①昭和11年/②24名/③4学級/④8名/⑤-
済美家政女学校 (現在の浦和幼稚園の学校法人浦和済美学園と関係あり?)
 ①大正15年4月3日/②18名/③2学級/④8名/⑤-
埼玉中学校 (昭和32年4月 浦和市立高等学校に統合)
 ①昭和6年3月/②11名/③5学級/④12名/⑤-
青年学校(浦和市第一、第三、第四青年学校)
 ①-/②308名/③11学級/④49名/⑤-
浦和幼稚園(私立) (現在も浦和幼稚園)
 ①-/②64名/③2学級/④4名(保母)/⑤-
常盤幼稚園(私立) (現在、同名の幼稚園はあるが、HPを見ると創立は1954年(昭和25年)とある)
 ①-/②38名/③2学級/④2名(保母)/⑤-
麗和幼稚園 (現在も麗和幼稚園)
 ①-/②44名/③2学級/④2名(保母)/⑤-
双葉幼稚園 (現在も双葉幼稚園)
 ①-/②73名/③3学級/④3名(保母)/⑤-
女師附属幼稚園(県立) (現在の埼玉大学教育学部附属幼稚園)
 ①-/②57名/③2学級/④2名(保母)/⑤-

8/05/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その3)

昭和13年4月発行の埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」の第3回目です。ここからはいくつか話題を拾っていきたいと思います。
まずは「浦和の郷土史」埼玉県史編纂主事による3ページの記事です。

●古代~大和時代・奈良時代・平安時代
  • 浦和の地名が浦輪即ち彎曲した海の入江から来たことは明らかである。
  • 成務天皇(13代天皇)の御代に武蔵国造が任命され、その拠点が現在の鴻巣辺りで南方への開発に力が注がれた。光仁天皇(49代天皇)の宝亀2年、それまで東山道に属していた武蔵が東海道に属せられ、中央政府からの公の交通が南方に向けられるに及び鴻巣以南の大宮、浦和の交通が非常に開けてきた。伊勢大廟の調貢を司るところが浦和岸にでき、後にそれが調神社となったのが既に奈良時代であるから、その当時の浦和が江戸湾の一港として物資の積出しに都合がよかったとみられる。(←浦和が港町だったとは驚きです!)
    * これについてはWikipediaの記載と異なるように読める。Wikipedia「浦和宿」では「浦和宿の少し手前岸村(現在の岸町)にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。 しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。」とある。
  • 奈良時代には朝鮮から帰化した人々が浦和とは江戸湾の一江を隔てた新羅郡に住んでいたので、大陸文化の影響を受けることも多かった。大化改新で施行された条理制度の遺構が与野の近くに見られる。
  • 平安の時代の初めには玉蔵院が創建された。平安時代より地方に興った荘園と武士は浦和地方にもその開拓の手を容れ、木崎領家、地頭方などの地名が見られるに至っている。
●鎌倉時代~室町時代
  • 太田窪の守光院縁起や玉蔵院の寂堂の奥書である調宮縁起には鎌倉時代の浦和地方の武士の活躍が記されている。武士の居館跡が残っていたり、堀ノ内、館ノ内などの地名からもそれらを窺い知ることができる。
  • 足利時代、武蔵は戦乱争奪の中心地であり正確な郷土史を知る材料は少ないが、記録に残る川越、岩槻などの戦火の状況からは浦和も幾分の被害は免れなかっただろう
●安土桃山時代~江戸時代
  • 天正18年豊臣秀吉が小田原北条氏を征する頃、これまで北条氏に服していた各地の人々は、鉾を収め秀吉に従ったり或いは戦争より遁れて隠れ農民となった。浦和宿の旧名主星野家の由緒書を見ると、祖先が北条家の臣の婿養子となったが、豊臣方に召し出され小田原攻めの道案内をしたとあり、その後武士となって姓を星野と改めたとある。
  • 家康が関東八州を得て入国するに際し、家康は岩槻城主に浦和の地を預け幕府の直領とした。浦和には市場の取立を許され、星野家は市場取締り役として活躍した。浦和代官中村彌右衛門は、非常に善政を布いて浦和地方の発展に努力した。その建立した寺が木崎の廓信寺である。
  • 二代将軍の元和年間の浦和の様子は、芝村長徳の寺住職が記しており、中山道の一駅として相当に人馬往来があったものの、その繁栄は熊谷、大宮には及ばなかった
●明治時代以降
  • 明治維新に際して、岩槻藩の統治を脱して武蔵県、明治2年1月には大宮県となり県庁は東京馬喰町、出張所が大宮町にあった。
  • 明治2年9月には浦和県と改称し、県庁を浦和に移して翌3月より事務を開始。
  • 明治4年7月に廃藩置県、10月には一時群馬県の名の下にあったが、間もなく埼玉県となり埼玉郡と足立葛飾両郡の一部がそれに属すこととなった。明治4年12月、県令(今の県知事)が県内を巡視し県庁を岩槻に置くことを決めたが、地利の都合上、一時的に浦和にある県庁を用いることとなった。
  • 明治元年、3年の明治天皇の武蔵一宮氷川神社への行幸参拝の際、浦和本陣にお泊りなられた。かかる光栄と、岩槻が交通上やや不便であるため、県庁は岩槻に引っ越しせず、一時的な出張仮事務所が遂に後の埼玉県庁となった。

8/03/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その2)

昭和13年4月発行の埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その1)では、冒頭の埼玉評論社主幹小野龍之助の「本誌発刊の趣旨」と「編集後記」を紹介しました。
今回から、少し興味のあった内容を紹介したいと思います。
まずは、目次の後ろにとじ込まれている当時の浦和市の地図です。
少しファイルの容量が大きいですが、貼り付けてみます。


今と昔をいろいろと比べてみました。
地図に番号や実線、点線を描き込んでみました。
点線で囲まれたところは昭和13年には無かったもので、例えば浦和駒場スタジアムとかさいたま新都心とか南浦和駅とか。
実線で囲まれたところは、当時の施設を表しています。
ローカルネタばかりですが、ぜひ今の地図と比べてみてください。
  1. 浦和第一女子高等学校 浦和高等女学校
  2. 浦和商業高等学校 浦和商業学校:隣の白幡沼の北半分が今より少し大きかったように見えます。埋め立てたのでしょうか?
  3. 高砂小学校 浦和第一小学校:当時の小学校は番号で呼ばれていました。後ろで第二から第五まで紹介していきます。
  4. さいたま地方裁判所・埼玉地方検察庁・川越少年刑務所さいたま拘置支所・埼玉少年鑑別所 浦和刑務支所
  5. 石川病院 昭和産婆看護婦学校:今は個人経営の産婦人科ですが、当時は学校だったんですね。この本によれば、昭和13年当時の校長先生は石川清隆氏という方なので、今の石川病院の院長先生はそのご子孫なのでしょうか。
  6. 埼玉大学教育学部附属中学校 浦和第二高等女学校・県女子師範学校・附属小学校:浦和第二高等女学校は現在の埼玉県立浦和西高等学校です。この地図の北の端、下木崎に現在は移転していますが、昭和13年当時はその名の通り浦和市の西端にあったんですね。県女子師範学校は、その後県男子師範学校(下記No.12)と統合され県師範学校となり戦後埼玉大学教育学部となりました。県女子師範学校は以前このブログで絵葉書を紹介しましたが、その絵葉書は明治末期~大正初期に発行されたもので、県女子師範学校がNo.6のこの地に移転する前の校舎です。絵葉書の建物は、昭和13年の時点では、建物自体がやや北に移動され、No.7の南側に記載されている埼玉図書館として利用されていました。
  7. 玉蔵院:現在は、当時のお寺の敷地の中に南北方向に道路が通り、敷地が東西に二分されています。
  8. 埼玉県庁・埼玉県警察本部:当時の県庁の敷地の北半分に今は県警本部があります。昭和13年当時の警察組織がどのようなものかはよく知りません。同じような機能の組織が当時からこの場所にあったのかもしれません。
  9. 浦和ロイヤルパインズホテル 市役所・活動館・信用組合・職業紹介所・済美家政女学校市民会館うらわ 旧郡役所:パインズホテルができる前は、そのあたりは結構ごちゃごちゃしていたような記憶があります。映画館(活動館)がありましたね。市民会館は旧郡役所とありますが、これは北足立郡でしょう。浦和が北足立郡から離脱した後、郡役所はどこに移転したのでしょうか?今は、北足立郡というと伊奈町だけです。
  10. 常盤公園 浦和地方裁判所:今のさいたま地方裁判所は上のNo.4のところにあります。
  11. 浦和警察署・自衛隊埼玉地方協力本部募集課・知事公館 浦和中学校跡:浦和中学校は現在の埼玉県立浦和高等学校で、下のNo.24に移転されました。浦和高校の校歌に「わが武蔵野の鹿島台」という歌詞がありますが、この鹿島台がこの地でした。
  12. さいたま市役所 県男子師範学校:県男子師範学校は、埼玉大学教育学部の前身の一つです。これも以前絵葉書を紹介しました。
  13. 埼玉大学附属小学校 男子師範付属小学校
  14. NTT東日本 藤倉工業浦和分工場:この本によれば、この工場は、帝国製麻株式会社の跡地だったところに、昭和12年軍需工業会社として発足した、とあります。おそらく現在の藤倉ゴム工業株式会社だと思います。しかし、HPで沿革を見ると、「1920 大正9年 株式会社に改め藤倉工業株式会社を設立」とあるものの、浦和分工場についての記述は見当たりませんでした。
  15. 埼玉りそな銀行 浦和第二小学校:第二小学校は今の常盤小学校です。今は、No.16に移転されています。
  16. 北浦和公園・常盤小学校 浦和高等学校:これは旧制浦和高等学校で、現在の埼玉大学となりました。
  17. イオン北浦和店 埼玉工業株式会社:この本によれば、当時浦和唯一の株式会社で織物工場だったようです。
  18. JAさいたま谷田 市役所第二出張所:No.26もそうですが、当時市役所の出張所が2か所ありましたが、いずれの場所も現在はJAが使っています。
  19. 谷田小学校 第四小学校
  20. 仲本小学校 第五小学校分教場:仲本小学校はNo.22の本太小学校の分教場だったんですね。でも歴史は古い。
  21. 原山中学校 稲荷山園:稲荷山園とは何でしょう?ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。
  22. 本太小学校 第五小学校:昭和13年当時の番号の一番大きな小学校です。
  23. 共済病院・社会福祉法人埼玉県共済会・尚和園 共済会養老院:埼玉県共済会は大正8年に埼玉県下の生活困窮者の救済を目的と設立されたそうです。尚和園は養護老人ホーム、特別養護老人ホームなどの各種福祉事業を行っているようですので、当時と同じ役割が今も継続されているようです。
  24. 浦和高等学校 浦和中学校:上のNo.11から移転し、その後浦和高等学校と名前が変わりました。
  25. 北浦和小学校 小学校予定地:昭和13年の段階で既に予定地とはなっていたものの、浦和市北浦和国民学校として開校したのは9年後、戦後となった昭和22年3月31日のことです。
  26. 木崎小学校・JAさいたま分館 浦和第三小学校・市役所第一出張所

  27. この他、北浦和駅西口駅前にガスタンクがあったのは知りませんでした。
    とりあえず今日はこんなところでしょうか。



7/22/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その1)

埼玉評論は埼玉評論社という出版社が発行していた月刊誌です。
昭和8年に創刊され、これは昭和13年4月1日発行の特集号です。
通常は定価25銭のところ、この特集号に限り3円ということですので、かなりの豪華本なんでしょう。
目次を見ると全162ページとなっていますが、実際はその後ろに80ページくらい広告が掲載されているので結構なボリュームです。

冒頭の埼玉評論社主幹小野龍之助の「本誌発刊の趣旨」には、次のように書かれています。
我浦和が、県下他どの町にも見られぬ特殊な姿を持っていることは、何人の眼にも一目瞭然である。県庁所在地であり、教育都市と言い、住宅町と言う。
これをして浦和の三大特徴と言えようが、いずれも非生産的欠点を持つ替りに文化的発達を約束する長所を有する。
(中略)
更に浦和は今一つの黎明を返えんとしている。そのことに就いて本誌本文中書く所にふれてあるからここにくどくどしく述べぬが、即ちこの地を取巻いて素晴らしい勢いで近代的大工業が開発されんとしていることである。
つまり県庁所在地、教育都市、住宅町と言う三大特徴の上に工業都市の名が更に一枚加えられんとしているのである。
それが与える諸種方面への影響は言うまでもない。この期に処するに、適正誤またざる方策が得られたはじめて浦和の発展は無限と信じる。
専門家をわずらわして浦和の過去を知り、幾多諸機関及び有識者等を動かして浦和の現勢全貌を伝え、同時にその将来に対する諸覧の意見を紹介したこの一本が必ずやその参考となることを信ずるのである。
当時の浦和市は今は大宮市、与野市、岩槻市と合併しさいたま市となりましたが、今でも県庁所在地、教育都市、住宅都市というのが 旧浦和市の一般的なイメージです。
私はこのイメージに子供のころから大変満足していますが、昭和13年頃、世界大戦直前の日本では、やはり大都市の一員として認められるには「工業都市」という証が重要だったのかもしれません。

そして、「編集後記」。
前からあった意見だったが、去年の暮あたりから再び浦和、与野、大宮を合併して埼玉市を作れと言う与論が今度は可成り現実性を帯びて叫ばれだした。そこで我々はどうせなら川口、鳩ケ谷、蕨も加えて大埼玉市を作る可きだと唱えた。それかあらぬか、浦和、与野、大宮説が消えて大埼玉市建設案が真面目に考えられつつある。 (以下略)
驚くことに、さいたま市構想というのが戦前からあったんですね。
この本は中身を捲っていくと結構興味深い記事があります。
(その2)以降で少しずつ紹介していこうと思います。