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10/19/2022

駅伝のコース図

駅伝のコース図と思われる資料が出てきました。わら半紙にガリ版刷りです。

生前、父が旧制浦和中でマラソンや駅伝の選手だったと言っていましたので、その当時(昭和20年3月に卒業)のものだと思いますが、何の大会なのかはわかりません。

 

【スタート】大宮市 官幣大社氷川神社前
   ↓(第1区 8.64km)
【第1中継点】上尾町 国民学校入口
   ↓(第2区 4.00km)
【第2中継点】桶川町 東電出張所前
   ↓(第3区 8.32km)
【第3中継点】鴻巣町 国民学校入口
   ↓(第4区 4.48km)
【第4中継点】東吉見村 氷川神社前
   ↓(第5区 7.68km)
【第5中継点】松山町 縣社箭弓神社前
   ↓(第6区 10.56km)
【第6中継点】坂戸町 角屋旅館前
   ↓(第7区 4.80km)
【第7中継点】名細村 国民学校前
   ↓(第8区 6.00km)
【第8中継点】川越市 縣社氷川神社前
   ↓(第9区 11.10km)
【第9中継点】五味貝戸バス停留所前
   ↓(第10区 7.20km)
【ゴール】大宮市 官幣大社氷川神社前

全部で72.78km。距離からすると結構立派な大会ですね。きっと道路も舗装されていなかったのだと思うので、走るのは大変だったろうなと思います。

現在の道路に置き換えてみました。


中継点は、例えば「国民学校」などは当然今はありませんので、だいたい付近の創立が古い小学校などに置き換えました。

第2中継点、桶川町の東電出張所は東京電力ではないですね。終戦前なので東京電燈でしょうか?
Wikipediaで調べてみると「東京電燈自体は9配電会社設立に伴い、1942年(昭和17年)4月1日をもって関東配電へ吸収された」とありますので、ちょうど名称が変わった頃で、まだ古い名称が使われていたのかもしれません。

第6中継点の坂戸町角屋旅館は残念ながら今は無いようです。
ただ、角屋旅館ではなく旅籠角屋で検索すると、結構ヒットして坂戸駅北口から徒歩5分ほどの日の出町交差点の角にあったことがわかりました。

いずれ機会があれば、父が走ったであろうコースを巡ってみたいと思います。
もちろん車でね(^^;)


10/21/2018

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)【続き】

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)の続きです。
私の住んでいるさいたま市(旧浦和市)を見ると、当時の地名が今もほとんど残っています。
浦和、大宮、与野、岩槻が合併して、区制が施行された時に昔ながらの地名が消えてしまうという話もありましたが、本当に嬉しいことです。
また、大宮氷川神社、浦和の調神社、玉蔵院、埼玉県庁もあります。
玉蔵院のすぐ北には郡役所もあります。
(この地図には足立郡と記載されていますが、Wikipediaによると明治11年に足立郡の東京府の範囲が南足立郡として分離し、この地図が発行される前年の明治12年に残された埼玉県の範囲が北足立郡となり、足立郡は消滅しています。)

新訂 埼玉県管内全図(中央部拡大)

この地図を見ると北の地方に向かう鉄道がくっきりと書かれています。
明治13年当時、鉄道は新橋〜横浜が開通したばかりで、これらの鉄道はまだ出来ていなかったはず。
でも、この地図には…

新訂 埼玉県管内全図(北部拡大)


よく見ると、これ後から書き込まれた線路です。
地図上の地名を辿ってみると、以下の通りでした。

上野(明治16年7月28日開業)
~大宮(明治18年3月16日)
~久喜(明治18年7月16日)
~栗橋(明治18年7月16日)
これは現在の東北本線ですね。

大宮(明治18年3月16日開業)
~熊ヶ谷(熊谷:明治16年7月28日)
~本荘(本庄:明治16年10月21日)
~新町(明治16年12月27日)
これは現在の高崎線です。

熊ヶ谷(熊谷:明治34年10月7日開業)
~石原(明治34年10月7日)
~大麻生(明治34年10月7日)
~田中(武川:明治34年10月7日)
~小前田(明治34年10月7日)
~寄居駅(明治34年10月7日)
これは現在の秩父鉄道秩父本線です。

千住(北千住:明治32年8月27日開業)
~草加(明治32年8月27日)
~粕壁(春日部:明治32年8月27日)
~久喜(明治32年8月27日)
~加須(明治35年9月6日)
現在の東武伊勢崎線です。

もう一つ川越から南下する線が書き込まれています。

川越(本川越:明治28年3月21日開業)
~大塚(南大塚:明治30年11月14日)
~入間川(狭山市:明治28年3月21日)
~南入曽(入曽駅:明治28年3月21日)
~所澤(所沢:明治28年3月21日)
おおむね現在の西武新宿線ですが、所澤より南側は、地図の地名を辿っていってもよくわかりません。
所澤の南、久米という地区の西側から荒畑(現在の荒幡か?)の西側までというと、現在の西武池袋線から西所沢駅を経由して西武狭山線辺りまでという感じです。
明治の中期までに開通していた路線としては今の西武新宿線、国分寺線ですが、西所沢駅は大正4年の開業(開業当時は小手指駅)ですので、ちょっと時期がずれています。

ということで、明治13年発行の埼玉県管内全図に、明治35年頃までの情報をおそらく私のご先祖様が書き込んだものと思われます。
鉄道が通る地名を結んで書いたのだと思いますが、こういう細かいことが好きな性格が子孫の私に伝わっているのでしょう。

10/20/2018

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)

明治時代の地図が出てきました。
新訂 埼玉県管内全図」で明治13年3月30日発行です。
明治13年(1880年)といえば、私が生まれる80年前で、私の祖父が生まれるよりも前です。結構見どころ満載ですね。

まず、明治13年当時の埼玉県の状況をWikipediaで押えておくことにしましょう。
  • 慶応4年(1868年) - 6月19日、忍藩士の山田政則が武蔵知県事に就任、旧幕府領を管轄する。
  • 明治2年(1869年) - 1月10日、山田政則知県事が宮原忠英に交代。1月13日、宮原知県事の管轄地域に大宮県を設置し、県庁は東京府馬喰町に置かれる。9月29日、県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。
  • 明治4年(1871年) - 7月14日、廃藩置県を受けて藩領に川越県忍県岩槻県の3県が誕生。11月14日、忍県・岩槻県・浦和県の3県が合併して埼玉県が誕生(足立郡・埼玉郡・葛飾郡の一部。現在の東部地域に相当)。同日、川越県は品川県の一部を吸収して入間県となる(現在の西部地域・北部地域・秩父地域に相当)。埼玉県の県庁所在地は埼玉郡岩槻町(現さいたま市岩槻区)とされたが、適する建物が無く、旧浦和県庁を流用する形で浦和宿(現さいたま市浦和区)に県庁が置かれた。入間県の県庁は川越城に置かれた。
  • 1873年(明治6年) - 入間県が群馬県と合併し熊谷県となる。熊谷県の県庁は熊谷駅(現熊谷市)に置かれた。
  • 1876年(明治9年) - 熊谷県は解消され旧入間県の地域は埼玉県と合併、現在の埼玉県が成立
  • 1883年(明治16年)7月28日 - 日本初の私鉄「日本鉄道」(東北本線・高崎線上野駅-熊谷駅間)が開業し、浦和駅・上尾駅・鴻巣駅・熊谷駅が開業。

まず表紙です。
12×18cmのボール紙2枚をそれぞれ一方の長辺の両端、中央を紐で結び、見開き本のようにした台紙の間に、この赤い一枚紙の表紙と折り畳まれた地図が挟まっています。
編集は諸井興久、根岸武香。
ネットで調べると、お二人とも埼玉県の郷土史を語るうえでは欠かせない名士です。
Wikipediaで当たってみると…
幕末期の当主であった諸井五左衛門興久は、1889年(明治22年)の町制施行の時、初代本庄町長に就任した、とあります。
また、根岸武香は、明治12年(1879年)に埼玉県議会開設と共に県会議員に選出されて副議長、その後第2代議長、第10代議長を務め、明治27年(1894年)には貴族院多額納税議員に選出された、とあります。また、吉見百穴の発掘に参加し保存に努めると共に、これを世間に紹介された、とあります。


地図の全体像です。
埼玉県管内全図ではありますが、今の埼玉県よりも随分広い範囲が描かれています。
南は横須賀、逗子の境界当たりまで。
西は秩父、北は群馬との県境、東は江戸川沿いの千葉との県境まで。
江戸川と利根川の間の千葉県野田市の一部も含まれています。
東京湾はまだ埋立て前で、鉄道は芝~高輪~品川あたりで海の上を通っています。
海岸線は築地の辺り。佃島や石川島、お台場は海の中ですね。
道路のように見えるのは川ですね。新宿から西の方角へまっすぐ続くのは玉川水道(玉川上水)です。

これは、地図の右下に書かれている凡例と奥付です。
凡例には今の時代には無くなってしまったものが書かれています。
国境、原野、鎮台、渡舟など。
鎮台はWikipediaによると、
鎮台(ちんだい)は、1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位である。
ということで、設置期間が僅か20年弱ですので、これが記載されている地図というのは珍しいのかもしれません。
また、原野というのも、開発しつくされた現在では見られませんね。
埼玉北部の現在の東松山市付近、所沢市北部~三芳町~川越市南部、小平市~立川市~福生市付近が原野の記号で表されています。

また、郵便局という二重枠のしるしがあります。
地図を見てみると、例えば私の住むさいたま市周辺では、川口、戸田、蕨、浦和、與野(与野)、大宮といった地名がこの二重枠の中に書かれています。
鉄道の駅と一瞬錯覚しましたが、これ、郵便局のある町、村を示しているようです。

いずれにしても、地名が、「郵便局」「宿駅」「町村」「枝村」という区分で表現されているのは面白いです。

奥付には、編集人の他、出版人、発売の名前が書かれていますが、住所の他身分(平民)まで書かれています。これらの方のお名前はネット検索すると当時の多くの書物の発行人、販売人としてヒットします。
欄外に小さな文字が見えるでしょうか?
「東京 本所 山中銅鐫」とあります。「鐫」という文字は初めて知りましたが、彫るという意味でした。銅版の地図なんですね。

少し長くなったので、今回はここまでにします。

8/06/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その4)

昭和13年4月発行の埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」の第4回目です。
今回は昭和13年当時の教育機関の一覧をご紹介します。
そのうちのいくつかは当時の浦和の地図を紹介した第2回目にも触れています。
多少の重複はご容赦ください。
本に掲載順に①創立/②生徒数/③学級数/④職員数/⑤特記事項を記載します。
各校の規模がイメージできるかと思います。

浦和高等学校 (現在の埼玉大学)
 ①大正11年11月/②450名/③15学級/④67名/⑤-
埼玉県師範学校 (現在の埼玉大学教育学部)
 ①明治6年1月/②376名/③11学級/④25名/⑤-
埼玉県女子師範学校・埼玉県立浦和第二女学校 (現在の埼玉大学教育学部・浦和西高等学校)
 ①明治34年3月、明治36年4月附属小学校開校、昭和9年3月県立第二高女併置/②271名(師範学校)、99名(高女)/③8学級(師範学校)、20学級(高女)/④42名/⑤-
埼玉県立浦和中学校 (現在の浦和高等学校)
 ①明治28年6月埼玉県第一尋常中学校創立、明治34年改名/②1004名/③20学級/④44名/⑤-
埼玉県立浦和高等女学校 (現在の浦和第一女子高等学校)
 ①明治33年3月私立埼玉県高等女学校を引き継ぐ/②985名/③20学級/④43名/⑤年限5年制
浦和商業学校(市立) (現在の浦和商業高等学校)
 ①昭和2年3月/②856名/③15学級(内 一種12学級、二種3学級)/④32名/⑤-
男師附属小学校 (現在の埼玉大学教育学部附属小学校)
 ①明治7年8月/②755名/③14学級/④24名/⑤-
女師附属小学校 (現在の埼玉大学教育学部附属小学校)
 ①明治36年4月/②321名/③8学級/④10名/⑤-
浦和市第一尋常高等小学校 (現在の高砂小学校)
 ①明治4年9月/②2260名(内 尋常170、高等469名)/③40学級/④47名/⑤(生徒数の内訳が合いません)
浦和第二尋常小学校 (現在の常盤小学校)
 ①昭和2年4月浦和市(第一)尋常高等小学校の分校として設置/②1541名/③29学級/④33名/⑤-
浦和市第三尋常高等小学校 (現在の木崎小学校)
 ①明治7年5月北足立郡木崎領家村長覚院内に木崎領家小学校として創設/②811名/③15学級/④19名/⑤-
浦和第四尋常高等小学校 (現在の谷田小学校)
 ①明治6年太田窪小学校と称す/②779名/③15学級/④19名/⑤-
浦和市第五小学校 (現在の本太小学校)
 ①明治44年北足立郡木崎小学校分教場として創立/②1151名/③22学級/④25名/⑤-
浦和産婆看護婦学校(私立) (現在の高田クリニック)
 ①大正3年4月/②64名/③1学級/④4名/⑤-
昭和産婆看護婦学校(私立) (現在の石川病院)
 ①昭和5年12月/②600名(卒業生総数)/③-/④-/⑤看護婦学科1ヶ年、産婆科1ヶ年
宮崎裁縫高等女学校 (大正7年創立ですがその後の詳細がわかりません)
 ①大正7年(創立)、大正12年(学校編成)、昭和6年(文部大臣甲種認可)/②25名/③6学級/④13名/⑤-
浦和洋裁縫女学校 (現在の学校法人小松原学園)
 ①昭和11年/②24名/③4学級/④8名/⑤-
済美家政女学校 (現在の浦和幼稚園の学校法人浦和済美学園と関係あり?)
 ①大正15年4月3日/②18名/③2学級/④8名/⑤-
埼玉中学校 (昭和32年4月 浦和市立高等学校に統合)
 ①昭和6年3月/②11名/③5学級/④12名/⑤-
青年学校(浦和市第一、第三、第四青年学校)
 ①-/②308名/③11学級/④49名/⑤-
浦和幼稚園(私立) (現在も浦和幼稚園)
 ①-/②64名/③2学級/④4名(保母)/⑤-
常盤幼稚園(私立) (現在、同名の幼稚園はあるが、HPを見ると創立は1954年(昭和25年)とある)
 ①-/②38名/③2学級/④2名(保母)/⑤-
麗和幼稚園 (現在も麗和幼稚園)
 ①-/②44名/③2学級/④2名(保母)/⑤-
双葉幼稚園 (現在も双葉幼稚園)
 ①-/②73名/③3学級/④3名(保母)/⑤-
女師附属幼稚園(県立) (現在の埼玉大学教育学部附属幼稚園)
 ①-/②57名/③2学級/④2名(保母)/⑤-

8/03/2018

埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その2)

昭和13年4月発行の埼玉評論 創刊五周年記念特集号「躍進浦和市の全貌紹介」(その1)では、冒頭の埼玉評論社主幹小野龍之助の「本誌発刊の趣旨」と「編集後記」を紹介しました。
今回から、少し興味のあった内容を紹介したいと思います。
まずは、目次の後ろにとじ込まれている当時の浦和市の地図です。
少しファイルの容量が大きいですが、貼り付けてみます。


今と昔をいろいろと比べてみました。
地図に番号や実線、点線を描き込んでみました。
点線で囲まれたところは昭和13年には無かったもので、例えば浦和駒場スタジアムとかさいたま新都心とか南浦和駅とか。
実線で囲まれたところは、当時の施設を表しています。
ローカルネタばかりですが、ぜひ今の地図と比べてみてください。
  1. 浦和第一女子高等学校 浦和高等女学校
  2. 浦和商業高等学校 浦和商業学校:隣の白幡沼の北半分が今より少し大きかったように見えます。埋め立てたのでしょうか?
  3. 高砂小学校 浦和第一小学校:当時の小学校は番号で呼ばれていました。後ろで第二から第五まで紹介していきます。
  4. さいたま地方裁判所・埼玉地方検察庁・川越少年刑務所さいたま拘置支所・埼玉少年鑑別所 浦和刑務支所
  5. 石川病院 昭和産婆看護婦学校:今は個人経営の産婦人科ですが、当時は学校だったんですね。この本によれば、昭和13年当時の校長先生は石川清隆氏という方なので、今の石川病院の院長先生はそのご子孫なのでしょうか。
  6. 埼玉大学教育学部附属中学校 浦和第二高等女学校・県女子師範学校・附属小学校:浦和第二高等女学校は現在の埼玉県立浦和西高等学校です。この地図の北の端、下木崎に現在は移転していますが、昭和13年当時はその名の通り浦和市の西端にあったんですね。県女子師範学校は、その後県男子師範学校(下記No.12)と統合され県師範学校となり戦後埼玉大学教育学部となりました。県女子師範学校は以前このブログで絵葉書を紹介しましたが、その絵葉書は明治末期~大正初期に発行されたもので、県女子師範学校がNo.6のこの地に移転する前の校舎です。絵葉書の建物は、昭和13年の時点では、建物自体がやや北に移動され、No.7の南側に記載されている埼玉図書館として利用されていました。
  7. 玉蔵院:現在は、当時のお寺の敷地の中に南北方向に道路が通り、敷地が東西に二分されています。
  8. 埼玉県庁・埼玉県警察本部:当時の県庁の敷地の北半分に今は県警本部があります。昭和13年当時の警察組織がどのようなものかはよく知りません。同じような機能の組織が当時からこの場所にあったのかもしれません。
  9. 浦和ロイヤルパインズホテル 市役所・活動館・信用組合・職業紹介所・済美家政女学校市民会館うらわ 旧郡役所:パインズホテルができる前は、そのあたりは結構ごちゃごちゃしていたような記憶があります。映画館(活動館)がありましたね。市民会館は旧郡役所とありますが、これは北足立郡でしょう。浦和が北足立郡から離脱した後、郡役所はどこに移転したのでしょうか?今は、北足立郡というと伊奈町だけです。
  10. 常盤公園 浦和地方裁判所:今のさいたま地方裁判所は上のNo.4のところにあります。
  11. 浦和警察署・自衛隊埼玉地方協力本部募集課・知事公館 浦和中学校跡:浦和中学校は現在の埼玉県立浦和高等学校で、下のNo.24に移転されました。浦和高校の校歌に「わが武蔵野の鹿島台」という歌詞がありますが、この鹿島台がこの地でした。
  12. さいたま市役所 県男子師範学校:県男子師範学校は、埼玉大学教育学部の前身の一つです。これも以前絵葉書を紹介しました。
  13. 埼玉大学附属小学校 男子師範付属小学校
  14. NTT東日本 藤倉工業浦和分工場:この本によれば、この工場は、帝国製麻株式会社の跡地だったところに、昭和12年軍需工業会社として発足した、とあります。おそらく現在の藤倉ゴム工業株式会社だと思います。しかし、HPで沿革を見ると、「1920 大正9年 株式会社に改め藤倉工業株式会社を設立」とあるものの、浦和分工場についての記述は見当たりませんでした。
  15. 埼玉りそな銀行 浦和第二小学校:第二小学校は今の常盤小学校です。今は、No.16に移転されています。
  16. 北浦和公園・常盤小学校 浦和高等学校:これは旧制浦和高等学校で、現在の埼玉大学となりました。
  17. イオン北浦和店 埼玉工業株式会社:この本によれば、当時浦和唯一の株式会社で織物工場だったようです。
  18. JAさいたま谷田 市役所第二出張所:No.26もそうですが、当時市役所の出張所が2か所ありましたが、いずれの場所も現在はJAが使っています。
  19. 谷田小学校 第四小学校
  20. 仲本小学校 第五小学校分教場:仲本小学校はNo.22の本太小学校の分教場だったんですね。でも歴史は古い。
  21. 原山中学校 稲荷山園:稲荷山園とは何でしょう?ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。
  22. 本太小学校 第五小学校:昭和13年当時の番号の一番大きな小学校です。
  23. 共済病院・社会福祉法人埼玉県共済会・尚和園 共済会養老院:埼玉県共済会は大正8年に埼玉県下の生活困窮者の救済を目的と設立されたそうです。尚和園は養護老人ホーム、特別養護老人ホームなどの各種福祉事業を行っているようですので、当時と同じ役割が今も継続されているようです。
  24. 浦和高等学校 浦和中学校:上のNo.11から移転し、その後浦和高等学校と名前が変わりました。
  25. 北浦和小学校 小学校予定地:昭和13年の段階で既に予定地とはなっていたものの、浦和市北浦和国民学校として開校したのは9年後、戦後となった昭和22年3月31日のことです。
  26. 木崎小学校・JAさいたま分館 浦和第三小学校・市役所第一出張所

  27. この他、北浦和駅西口駅前にガスタンクがあったのは知りませんでした。
    とりあえず今日はこんなところでしょうか。



7/24/2016

絵はがき JAPAN TEA

年代はよくわかりません。
日本を訪れた外国の観光客向けの絵はがきで、日本茶の紹介用の絵はがきだと思います。
タイトルは "JAPAN TEA" で5枚組です。

絵はがきの包み紙の裏表紙に世界地図が描かれていますが、"PRINCIPAL CONSUMER-COUNTRIES OF JAPAN TEAS" (日本茶の主な消費国)として"OKINAWA"(沖縄)と書かれているので、沖縄返還前に発行されたものでしょう。



日本の本州の脇には、"SHIMIZU"と書かれています。
ということは、静岡県清水市のお茶の紹介なんですね。

中の写真は、写真に着色したものなのか、写真ではなく絵なのか、よくわかりませんが、非常にレトロな印象が漂っています。



●Mother is serving tea to her children


●Japanese tea set and tea blossom


●Tea ceremony


●Tea plucking doll



そして、日本茶の効能が包み紙の裏側に書かれています。


日本茶は最もすっきりして衛生的な飲料、日本茶を飲んでいつまでも若く長生きしましょう!

10/17/2015

開都五百年記念 都電・都バス・トロリーバス案内図

またまた、電車、バスの路線図です。
「開都五百年記念」とあります。


500年前というと1868年の東京遷都ではなく、1457年の太田道灌の江戸城築城でしょうね。
中の路線図には「昭和31年(1956年)10月1日現在」と書いてありますので、ちょうど計算があいます。

電車案内図は都電の路線図です。


今は地下鉄にとって替わっていますが、当時はまさに都電の時代だったのですね。
駅の数は今の地下鉄よりも多いような気もします。

ちなみに料金は、都電が片道13円、トロリーバスが片道20円と書かれています。

都バス案内図は電車案内図よりももっと細かいです。


埼玉県、千葉県、神奈川県まで路線が伸びています。
終点が、例えば、草加、川口駅、浦和駅、市川、浦安学校前、川崎駅。
今も隣の県まで運行しているんでしょうか?あまり見た記憶がありません。

さて、路線図のわきには「財団法人東京都交通局協力会」、一番下には小さく「納品 株式会社人文社 東京都千代田区神田神保町3ノ4」と書かれていますが、この折り畳み式案内図の表紙には大きな東芝のロゴ、東芝のマツダランプといった広告。
(マツダランプという名前はものすごく懐かしいです)

この案内図の発行の主体は誰なんでしょうね?
また、「開都五百年記念」と都電・都バス案内図と東芝の関係もこれだけではよくわかりません。
きっと、江戸城築城500年を記念して、自治体、民間、みんな大きな盛り上がっていたのでしょう。

埼玉銀行「名勝交通地圖」

以前、「埼玉銀行店舗一覧」という資料を紹介しました。
今日も、ほとんど同じような資料ですが、「名勝交通地圖」というのが出てきました。


「埼玉銀行店舗一覧」とほとんど同じ構成で、表が「関東交通名所地図」、裏が「京阪神交通名所地図」というところは全く同じです。
しかし、いつ頃発行されたのか特に記載されていません。

それで、表の「関東交通名所地図」を(老眼なので)ルーペで調べてみました。
今ある駅がない、今はこんな駅はない、というような駅の有無に着目して、それでは、その駅がいつ開業したのか、あるいは、その駅はいつ廃止されたのか、ということを調べれば、この地図がいつ頃発行されたのかがわかります。

Wikipediaの「開業年別鉄道駅」を調べると、各駅がいつ開業したのか、いつ廃止されたのか、いつ名称が変わったのかがわかります。

今日ご紹介した地図を見ると、
昭和23年12月19日開業の東北本線杉田駅は記載されていますが、

昭和23年12月25日開業の上越線井野駅が記載されていないところまで、絞り込めました。


つまり、この地図には、昭和23年12月19日~12月25日の数日間までの情報が取り込まれていることがわかりました。

物置に眠っていたこういう資料も、じっくり調べてみると、いろいろとわかってくるものですね。

10/12/2015

昭和30年頃の福井県の地図/市町村合併

ちょっと古い地図が出てきました。

新修日本分県地図「福井県」 合併後の新市町村記入

発行は東京神田の塔文社で定価30円です。


発行日は特に記載されていないのですが、地図の裏側に「群市区町村別世帯および人口(30.10.1)」という表が掲載されているのでだいたいその頃のものでしょう。

表紙に「合併後の新市町村記入」と書かれているので、さっそくネットで調べてみると、Wikipediaで「福井県の廃市町村一覧」が出てきました。

昭和25年~34年頃にかけてものすごい数の市町村の統廃合が行われていますね。
昭和28年10月から31年9月の間に市町村数は150→49と約3分の1に減少しています。

この地図のタイトルには「合併後の新市町村記入」と謳われていますが、わずか3年ほどの短い期間で慣れ親しんできた地名が無くなってしまうのですから、新旧地名が書かれている地図はずいぶん重宝がられたことでしょう。

Wikipediaの一覧表と地図の新旧名称を比べると、昭和29年1月1日から昭和31年9月30日の統廃合がカバーされていることがわかりました。

ちなみに昭和29年1月1日の統廃合は、
・南条郡南条村(今は南条郡南越前町)の誕生
・遠敷郡上中町(今は三方上中郡若狭町)の誕生

昭和31年9月30日の統廃合は、
・吉田郡藤岡村(今は福井市)の誕生
・大野郡和泉村(今は大野市)の誕生
・武生市(今は越前市)への今立郡味真野村の統合
・今立郡今立町(今は越前市)への今立郡岡本村の統合
・坂井郡坂井村(今の坂井市)への坂井郡木部村の統合
でした。

ところで、地図を見ていて気づいたのですが、滋賀県の木ノ本から敦賀、武生、鯖江を通って福井に抜ける北陸本線がいやに曲がりくねっています。
駅の名前も今と違っていて・・・
木ノ本→中ノ郷柳ヶ瀬刀根疋田→敦賀→新保杉津大桐→今庄→湯尾→鯖波→王子保→武生→鯖江→大土呂→福井

今は、
木ノ本→余呉→近江塩津→新疋田→敦賀→南今庄→今庄→湯尾→南条→王子保→武生→鯖江→北鯖江→大土呂→越前花堂→福井


そうです、まだトンネルが開通していなかったんですね。北陸トンネルの開通は昭和37年ですからこの地図が発行されてから数年後になります
トンネル開通でルートが変わり廃駅となったのでしょう。

他にも岐阜県との県境にあり、現在は岐阜県に統合された大野郡石徹白村もまだ福井県にあります。
リンクを見ると、越境合併に至るまでにはかなり紆余曲折があったようですね。

ところで、なぜ昭和30年代初めの福井県地図があるのかと思ったら、地図と一緒に「東尋坊の奇巌」という6枚組の絵葉書が出てきました。
家族の誰かが越前旅行にでも行ったのでしょうね。

8/01/2015

埼玉銀行店舗一覧(1955年)

1955年、昭和30年の埼玉銀行の「店舗一覧」というのが物置から出てきました。今は、名前が変わって埼玉りそな銀行ですね。



中を広げると、「関東交通名所地図」。



そして、その裏は「京阪神交通名所地図」。



そして、肝心の店舗一覧は、こんな感じで地図上に赤いマークで示されています。(もちろん住所と電話番号も中に記載されています。)



最後は、いろいろな預金のご紹介のページ。
普通預金、定期預金などお馴染みの預金の他、こつこつと日々の売り上げから納税日まで積み立てていく「納税準備預金」とか、元本10万円までの利息に税金のかからない「預金者貯蓄組合預金」なんていうのもあったようです。