11/27/2018

古絵葉書 福井観光絵葉書

戦後の絵葉書です。
「福井観光絵葉書」と書かれた袋に14枚のカラーの絵葉書が入っていました。
昭和30年代のものでしょうか?
通信面には「福井ステーションビル発行(観光のふくい)」とあり、右下には「京都・日寫納」とあります。(日寫はおそらく現在のNISSHA株式会社だと思います。京都の老舗で、現在はグローバルな展開をされています。)
我が家の物置には結構昭和30年代頃の福井県の資料があります。
以前このブログで紹介した「昭和30年頃の福井県の地図/市町村合併」、「絵葉書「大本山 永平寺」」など。
父や祖父が旅行にでも行ったのかと思っていたのですが、最近になって、新婚早々の父が仕事で福井に1ヶ月ほど滞在していたことがわかりました。
おそらくこの絵葉書もその時に購入した物でしょう。

福井神社
福井神社の創建は1943年(昭和18年)ですがその後空襲で焼失し、写真の鳥居と拝殿は1957年(昭和32年)に作られたとのことですので、この写真はそれ以降に撮影されたものです。鳥居も拝殿も今は60年の時を感じさせますが、しかし、斬新なデザインの神社ですね。手前は県庁の周りのお堀です。


雪のお泉水
写真正面の建物はかつての 福井藩主松平家の別邸「御泉水屋敷(おせんすいやしき)」と呼ばれています。
平成5年に復元されたとのことですので、この写真はその前のものですね。





継体天皇石像

足羽山中腹にある足羽神社には、継体天皇が祀られています。







福井駅
福井駅は改築され最近はすっかり変わってしまいました。
この駅ビルが懐かしいですね。
また、駅前のバスもみんなボンネットバスです。
ちなみに駅ビルはこの絵葉書を発行した「福井ステーションビル」です。


福井市中心街


今の大名町交差点付近から駅を眺めた景色でしょうか。
上の福井駅前に停まっていたバスが走っています。
道路も広いですね。
わかりにくいですが、右上の方に路面電車が停まっているようにも見えます。

くまがい・こどもえん


熊谷組HPの沿革によれば、熊谷組は昭和31年(1956年)5月「くまがいこどもえん」を福井市へ寄贈したとあります。







福井市郷土博物館

昭和27年(1952年)に福井復興博覧会の会場として設立・開館され、その後福井市郷土博物館となったそうです。平成に入り建物の増改修が行われたとあります。






福井市郷土歴史館
「福井市郷土博物館」は昭和28年(1953年)に足羽山に開館しましたが、平成16年(2004年)に上の絵葉書にある松平家別邸であった「御泉水屋敷」の隣に移転されているそうです。





上水道記念館と配水池

現在、「福井市水道記念館」がありますが、これは大正13年(1924年)に建設された「足羽揚水ポンプ場」がその役目を終え、平成16年(2004年)に「福井市水道記念館」となったとあります。
この「上水道記念館」と同じものなのでしょうか?ご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけると幸いです。


本町通のこぶし並木
福井大仏観音

このお姿の観音様は昭和33年(1958年)に建立されました。
座像ですが台座を入れて約8mの高さだそうです。
足羽山やまぶき苑


足羽山つつじ苑
花の足羽山

11/23/2018

古絵葉書「水戸」常盤公園(偕楽園)・好文亭・常盤神社・弘道館

絵葉書シリーズ、今回は茨城県水戸。常盤公園(偕楽園)、好文亭、常盤神社、弘道館です。
茨城には30代後半、40代後半とあわせて6年ほど暮らしていましたので季節のイベントに合わせて何度か足を運びました。

通信面には「水戸川又書店発行」と書かれています。
川又書店は水戸駅前に店を構える老舗で私も水戸に行くたびに通ったものですが、日経新聞の記事によれば、2011年の震災後吸収合併されたようです。ただ、そのお名前は残っているようで、ホッとしました。

常盤公園(偕楽園)
偕楽園はご承知の通り、岡山の後楽園、金沢市の兼六園と並ぶ日本三名園の一つで、梅の名所として有名です。
Wikipediaによると、1842年(天保13年)、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)により開園されたとあります。
そして、1873年(明治6年)太政官布達第16号で公園地の指定を受け「常磐公園」と命名されましたが、1932年(昭和7年)2月に「偕楽園」と旧称に戻されました。
今回紹介する絵葉書は、通信面のデザインから、大正7年~昭和7,8年頃の発行と思われますが、「偕楽園」ではなく「常盤公園」という名前が使われていますので、昭和7年以前に撮影されたものですね。
偕楽園や好文亭の現在の様子をご覧になるには茨城県公園サポーター「偕楽園 四季の会」さんが運営するHP「速報偕楽園」がお勧めです。
吐玉泉は当時と姿が変わってしまっていますね。ときどき井筒が取り替えられ現在は4代目とのことですが、この写真の当時は何代目だったのでしょうか?
(水戸名所)常盤公園梅林満開
(水戸名所)常盤公園吐玉泉
好文亭
Wikipediaによると、好文亭は、徳川斉昭自身により1840年(天保11年)4月に設計された偕楽園内の施設ですが、1945年(昭和20年)空襲で焼失、1969年(昭和44年)落雷で再度焼失し、その都度復元されています。
また、2011年(平成23年)の東北地方太平洋沖地震でも被害を受けましたが翌2012年(平成24年)には全面復旧し、今に至っているとのことです。
上で紹介した「速報偕楽園」では四季折々の動画や好文亭の内部の「全天球360°映像」が楽しめます。空襲で焼失する前の写真と現在の様子を比べてみるのも興味深いものです。
「水戸名所」常盤公園好文亭
(水戸名所)常盤公園好文亭玄関
好文亭内 梅ノ間
好文亭内 松ノ間
好文亭内 何陋庵茶室待合
好文亭内烈公何陋庵茶室
好文亭内何陋庵茶室庭
好文亭内 西榭
好文亭内烈公御居間
好文亭内 東榭
好文亭内 楽壽楼
好文亭内楽壽楼昇降機
常盤神社・弘道館
常盤神社は明治の初めに建立された徳川光圀、徳川斉昭を祀った神社です。
この写真の社殿は残念ながら空襲で焼失してしまったようです。
弘道館は、徳川斉昭により作られた藩校です。
ネットで見られる最近の写真と比べて建物はあまり違いが感じられませんが、玄関前の木の枝ぶりは随分異なっているように見えます。植え替えられたのかもしれませんね。
(水戸名所)常盤神社
(水戸名所)弘道館玄関



















11/18/2018

昭和19年「海軍志願兵」

昭和19年9月発行の「海軍志願兵」という本です。
「海軍省当局、横須賀海軍人事部指導監修」となっていますが、軍や政府が発行したものではなく、個人が情報を集め編集した「海軍入隊手引き」といったものです。
国民の総力、青少年諸君のはりきりった力の結集が、敵の抱く野望を打ち砕く結果となる。海の戦闘員を充実することこそ現下の急務。
ということで、海軍の生活から各兵種の役割などを漫画なども交えて解説し、海軍の魅力を青少年に伝えるとともに、また、彼らの両親に子供の入隊を促すような内容となっています。
当時の日本や国際情勢が厳しい状況であったことは十分理解しているものの、自分の息子を軍に入隊させることは想像するだけでも辛いです。
当時の私たちのご先祖様の苦労を考えると心が痛みます。

Wikipediaによると、編者の片柳忠男は「日本の宣伝家、プロデューサー、画家、伝記作家」で「戦時中は大東亜宣伝連盟常務理事、海軍嘱託」とあります。
また、発行者の北原鉄雄は「出版人。写真や文学を専門とする出版社、アルスを設立し、代表を務めた。北原白秋の弟(三男)にあたる。」とあります。

ところどころ抜粋して紹介します。

表紙
裏表紙

「推奨の辞」
「発刊の辞」

志願する兵種の選び方について
海軍志願兵進路指導概要


海軍志願兵徴募ポスター

「編者の言葉」、奥付


11/11/2018

絵葉書「外房名勝」


久しぶりに絵葉書です。

「外房名勝」というタイトルの「高級原色版八枚組」です。
袋の裏には「館山市 松田屋書店発行」とあります。
詳しい年代はわかりませんが、ハガキの通信面上部の「郵便はがき」が左から書かれているので終戦後の発行です。

【東篠村・鏡忍寺山門】
山門はネットの最近の写真と比べると木材が白っぽく見え、まだ新しい印象を受けますが、いつ頃建造されたのかはよくわかりませんでした。
右上は祖師堂ですが、平成20年に243年ぶり再建されたとありますので、この写真の建物はその前のものですね。



【太海・仁右衛門島の遠望】
今も自然を楽しめる観光スポットのようです。
多少波で浸食されてしまったのか、あるいは撮影時の干満の違いなのか、当時の方が陸地部分が多いように見えます。手前の民家はすっかり景色が変わっています。海女さんは今でもいるのでしょうか?

【興津・おせんころがしの奇勝】
断崖絶壁の道路も現在は別ルートが整備されています。
ネットで最近の写真を見ると、今でも手前の白い石塔はあるようです。
【小湊・誕生寺】【小湊・水族館】
誕生寺のHPによると、これは祖師堂で弘化3年(1846年)建立のものとあります。境内には今よりもたくさん松があったようですね。
円形のモダンな水族館は、現在は建替えられて、千葉大学海洋バイオシステム研究センターこみなと水族館として一般公開されているようです。


【天津・清澄山、清澄寺の全景】

奥に本堂が見えます。清澄寺のHPによると過去に改修が繰り返され現在の姿は17世紀後半のものとされています。
手前の大きな杉は「千年杉」でしょうか。樹齢800年といわれているそうですが、昭和29年の台風で左側の杉が倒れてしまったそうです。(ということはこの絵葉書は終戦後~昭和29年に撮影されたものですね。)


【鴨川松島の風光】
「鴨川松島」でネット検索すると今でもほとんど同じ景色が見られますね。


【妙の浦(鯛の浦)】

絵葉書には「世界的天然記念物 鯛の郡棲地」とありますが、今でもたくさん集まってくるそうです。
海に浮かぶ二つの島のうち手前の島の町歩に立派な松がありますが、残念ながら最近の写真には写っていませんね。




【白浜灯台】

Wikipediaによれば、正式には野島崎灯台というのですね。
1870年、日本の洋式灯台では2番目に初点灯したという由緒ある灯台です。関東大震災、戦時中の攻撃で損傷し、1946年に今の姿に復旧したとあります。
しかし、ネット上の今の写真と比べると微妙に違うような…。
手書きで修正が入っているかも。

10/27/2018

教育同志会編集 中等国語読本字引 第二学年用

明治37年(1904年)5月31日発行の教育同志会編集「中等国語読本字引」第二学年用です。

当時の中学校は12歳から5年間だったと思いますので、13歳用ということでしょう。
当時の漢字は今よりもずっと画数が多いので、ざっと見た感じでは13歳よりももっと上の年齢の生徒向けの図書の印象を受けました。


表紙をめくると「凡例」が出てきます。

一、本書は現時全国中学校に於て、其最も多く教科書として採用せられつつある中等国語読本を選み、其れに採録せる文章辞句に対し、専ら通俗的に解釈を試みたるなり。
一、中等国語教科書は十巻より成り、其の巻一巻二は一学年用に、巻三巻四は二学年用に、巻五巻六は三学年用に、巻七巻八は四学年用に、巻九巻十は五学年用に採定せらるるもの。本書は之に倣ひ、一学年に一冊、即ち全五冊にて完成するものなり。 
一、本書は中学教員及び在学生徒の研究の備考に充つるの目的なるのみならず、補習科諸生の座右欠くべからずを信ず。若し夫れ、山間僻陬の地に在り入校及び師を聘するに便ならざるの学子は本書に依って独習の精を研くべく。共に修業の彼岸に到るの利益を得ば編者の幸甚とするところなり。
教育同志会 
とありますので、教科書そのものではなく参考書のようです。







本文は、こんな感じです。
凡例にあったように、教科書である中等国語読本の文章から語句を抽出して、その読みや意味を解説しています。

しかし、前にも書きましたが13歳向けの図書としては難しいですね。いくつか紹介すると、

農業 ノウギャウ ○五穀ヲ作ルワザ
霄壤の差異 セウジヤウノサヰ ○天ト地ノチガヒ
屈曲偃蹇 クツキョクエンケン ○マガリカガム
碩學鴻儒の輩 セキガクカウジユノハイ ○學問ガ廣く高キ人々

というような感じです。


そして奥付です。
編集された教育同志会については、ネット検索してもヒットしませんでしたが、編集兼発行代表者の大月隆氏については、いくつかヒットしました。
著作がいくつかありますが、大月隆氏の人物像について記された情報はほとんどありませんでしたが、大月隆に関する研究論文が見つかりました。

もう一つの『文章世界』 -大月隆と文学同志会のことども-, 宗像 和重, 早稲田大学大学院文学研究科紀要 63, 1138-1119, 2018-03-15, 早稲田大学大学院文学研究科



それによれば、
大月隆は、明治二十年代後半から積極的な著作活動をおこなうとともに、文学同志会を起こして出版活動にも取り組んだ人物だが、その履歴や人物像については、ほとんど知られていない。
とあります。
本人そのものの記録がほとんど残っていない中、非常にご苦労されて調査された興味深い論文です。しかも、今年発表されたばかりなんですね。

古書をいろいろと調べていると、このような出会いがあり、楽しませていただいています。












10/21/2018

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)【続き】

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)の続きです。
私の住んでいるさいたま市(旧浦和市)を見ると、当時の地名が今もほとんど残っています。
浦和、大宮、与野、岩槻が合併して、区制が施行された時に昔ながらの地名が消えてしまうという話もありましたが、本当に嬉しいことです。
また、大宮氷川神社、浦和の調神社、玉蔵院、埼玉県庁もあります。
玉蔵院のすぐ北には郡役所もあります。
(この地図には足立郡と記載されていますが、Wikipediaによると明治11年に足立郡の東京府の範囲が南足立郡として分離し、この地図が発行される前年の明治12年に残された埼玉県の範囲が北足立郡となり、足立郡は消滅しています。)

新訂 埼玉県管内全図(中央部拡大)

この地図を見ると北の地方に向かう鉄道がくっきりと書かれています。
明治13年当時、鉄道は新橋〜横浜が開通したばかりで、これらの鉄道はまだ出来ていなかったはず。
でも、この地図には…

新訂 埼玉県管内全図(北部拡大)


よく見ると、これ後から書き込まれた線路です。
地図上の地名を辿ってみると、以下の通りでした。

上野(明治16年7月28日開業)
~大宮(明治18年3月16日)
~久喜(明治18年7月16日)
~栗橋(明治18年7月16日)
これは現在の東北本線ですね。

大宮(明治18年3月16日開業)
~熊ヶ谷(熊谷:明治16年7月28日)
~本荘(本庄:明治16年10月21日)
~新町(明治16年12月27日)
これは現在の高崎線です。

熊ヶ谷(熊谷:明治34年10月7日開業)
~石原(明治34年10月7日)
~大麻生(明治34年10月7日)
~田中(武川:明治34年10月7日)
~小前田(明治34年10月7日)
~寄居駅(明治34年10月7日)
これは現在の秩父鉄道秩父本線です。

千住(北千住:明治32年8月27日開業)
~草加(明治32年8月27日)
~粕壁(春日部:明治32年8月27日)
~久喜(明治32年8月27日)
~加須(明治35年9月6日)
現在の東武伊勢崎線です。

もう一つ川越から南下する線が書き込まれています。

川越(本川越:明治28年3月21日開業)
~大塚(南大塚:明治30年11月14日)
~入間川(狭山市:明治28年3月21日)
~南入曽(入曽駅:明治28年3月21日)
~所澤(所沢:明治28年3月21日)
おおむね現在の西武新宿線ですが、所澤より南側は、地図の地名を辿っていってもよくわかりません。
所澤の南、久米という地区の西側から荒畑(現在の荒幡か?)の西側までというと、現在の西武池袋線から西所沢駅を経由して西武狭山線辺りまでという感じです。
明治の中期までに開通していた路線としては今の西武新宿線、国分寺線ですが、西所沢駅は大正4年の開業(開業当時は小手指駅)ですので、ちょっと時期がずれています。

ということで、明治13年発行の埼玉県管内全図に、明治35年頃までの情報をおそらく私のご先祖様が書き込んだものと思われます。
鉄道が通る地名を結んで書いたのだと思いますが、こういう細かいことが好きな性格が子孫の私に伝わっているのでしょう。

10/20/2018

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)

明治時代の地図が出てきました。
「新訂 埼玉県管内全図」で明治13年3月30日発行です。
明治13年(1880年)といえば、私が生まれる80年前で、私の祖父が生まれるよりも前です。結構見どころ満載ですね。

まず、明治13年当時の埼玉県の状況をWikipediaで押えておくことにしましょう。
  • 慶応4年(1868年) - 6月19日、忍藩士の山田政則が武蔵知県事に就任、旧幕府領を管轄する。
  • 明治2年(1869年) - 1月10日、山田政則知県事が宮原忠英に交代。1月13日、宮原知県事の管轄地域に大宮県を設置し、県庁は東京府馬喰町に置かれる。9月29日、県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。
  • 明治4年(1871年) - 7月14日、廃藩置県を受けて藩領に川越県・忍県・岩槻県の3県が誕生。11月14日、忍県・岩槻県・浦和県の3県が合併して埼玉県が誕生(足立郡・埼玉郡・葛飾郡の一部。現在の東部地域に相当)。同日、川越県は品川県の一部を吸収して入間県となる(現在の西部地域・北部地域・秩父地域に相当)。埼玉県の県庁所在地は埼玉郡岩槻町(現さいたま市岩槻区)とされたが、適する建物が無く、旧浦和県庁を流用する形で浦和宿(現さいたま市浦和区)に県庁が置かれた。入間県の県庁は川越城に置かれた。
  • 1873年(明治6年) - 入間県が群馬県と合併し熊谷県となる。熊谷県の県庁は熊谷駅(現熊谷市)に置かれた。
  • 1876年(明治9年) - 熊谷県は解消され旧入間県の地域は埼玉県と合併、現在の埼玉県が成立。
  • 1883年(明治16年)7月28日 - 日本初の私鉄「日本鉄道」(東北本線・高崎線上野駅-熊谷駅間)が開業し、浦和駅・上尾駅・鴻巣駅・熊谷駅が開業。

まず表紙です。
12×18cmのボール紙2枚をそれぞれ一方の長辺の両端、中央を紐で結び、見開き本のようにした台紙の間に、この赤い一枚紙の表紙と折り畳まれた地図が挟まっています。
編集は諸井興久、根岸武香。
ネットで調べると、お二人とも埼玉県の郷土史を語るうえでは欠かせない名士です。
Wikipediaで当たってみると…
幕末期の当主であった諸井五左衛門興久は、1889年(明治22年)の町制施行の時、初代本庄町長に就任した、とあります。
また、根岸武香は、明治12年(1879年)に埼玉県議会開設と共に県会議員に選出されて副議長、その後第2代議長、第10代議長を務め、明治27年(1894年)には貴族院多額納税議員に選出された、とあります。また、吉見百穴の発掘に参加し保存に努めると共に、これを世間に紹介された、とあります。


地図の全体像です。
埼玉県管内全図ではありますが、今の埼玉県よりも随分広い範囲が描かれています。
南は横須賀、逗子の境界当たりまで。
西は秩父、北は群馬との県境、東は江戸川沿いの千葉との県境まで。
江戸川と利根川の間の千葉県野田市の一部も含まれています。
東京湾はまだ埋立て前で、鉄道は芝~高輪~品川あたりで海の上を通っています。
海岸線は築地の辺り。佃島や石川島、お台場は海の中ですね。
道路のように見えるのは川ですね。新宿から西の方角へまっすぐ続くのは玉川水道(玉川上水)です。

これは、地図の右下に書かれている凡例と奥付です。
凡例には今の時代には無くなってしまったものが書かれています。
国境、原野、鎮台、渡舟など。
鎮台はWikipediaによると、
鎮台(ちんだい)は、1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位である。
ということで、設置期間が僅か20年弱ですので、これが記載されている地図というのは珍しいのかもしれません。
また、原野というのも、開発しつくされた現在では見られませんね。
埼玉北部の現在の東松山市付近、所沢市北部~三芳町~川越市南部、小平市~立川市~福生市付近が原野の記号で表されています。

また、郵便局という二重枠のしるしがあります。
地図を見てみると、例えば私の住むさいたま市周辺では、川口、戸田、蕨、浦和、與野(与野)、大宮といった地名がこの二重枠の中に書かれています。
鉄道の駅と一瞬錯覚しましたが、これ、郵便局のある町、村を示しているようです。

いずれにしても、地名が、「郵便局」「宿駅」「町村」「枝村」という区分で表現されているのは面白いです。

奥付には、編集人の他、出版人、発売の名前が書かれていますが、住所の他身分(平民)まで書かれています。これらの方のお名前はネット検索すると当時の多くの書物の発行人、販売人としてヒットします。
欄外に小さな文字が見えるでしょうか?
「東京 本所 山中銅鐫」とあります。「鐫」という文字は初めて知りましたが、彫るという意味でした。銅版の地図なんですね。

少し長くなったので、今回はここまでにします。