以前大正末期から昭和初期の頃の台湾の絵葉書についてご紹介しました。
その5枚の絵葉書の中に1枚、宛先まで書かれて書き損じとなったはがきがあり、その宛先の住所が、私が30代後半に転勤で家族と暮らしていた茨城県内の社宅すぐ近くの神社だったのです。
達筆の筆書きのため、差出人の名前は読み取れませんが、少なくとも苗字が私とは違います。また、住所は書かれておらず「臺灣(台湾)にて」と書かれているようです。
差出人と宛先の方との関係はわかりません。
一度、その神社を訪れたいとずっと思っていたのですが、今日、ようやく念願がかない、宮司さんとお会いすることができました。
やはり、その宛名の方は、今の宮司さんのおじい様でした。
(既にお亡くなりになっていらっしゃいました。)
残念ながら、差出人については思い当たる方はいらっしゃらないとのことでしたが、
「当時、台湾という海の向こうの国に行くということはすごく大変なことなので、出発する前に神社で祈願をして、そのお礼のはがきを出そうとしたのかもしれませんね。」
しかし、百年近く前から今の私たちには全く知らないところで不思議なご縁があったということで、いろいろとお話ができました。
5枚の絵葉書はもちろん宮司さんにお渡ししてきました。
長い時間がかかりましたが、届くはずだったところに届いてホッとした気持ちです。
1/11/2020
2/09/2019
川口市立文化財センター分館郷土資料館さまに資料を寄贈しました
以前「川口市 市制施行記念絵はかき」というタイトルで昭和8年の川口市制施行にあわせて発行された絵葉書をこのブログで紹介しました。
そうしたところ、川口市立文化財センター分館郷土資料館さまからお問い合わせをいただき、以下の資料をお譲りいたしました。
そうしたところ、川口市立文化財センター分館郷土資料館さまからお問い合わせをいただき、以下の資料をお譲りいたしました。
- 岩渕町郷土誌
- 川口町勢要覧
- 川口市勢要覧
- 市制施行記念絵はかき
- 皇紀二千六百年記念縣社川口神社本殿造営並びに神域改善事業奉献証明書
- 川口市 市制施行30周年物故功労者慰霊祭関係書類(式次第、名簿、集合写真)
- 市制施行30周年パンフレット(川口市歌ソノシート付き)
- 古絵葉書(川口善光寺・荒川)
- 全国市長會記念写眞(高知市)
- 観光の内房 勝山勝景絵葉書 (房州勝山町 板倉写真館発行)
最後の絵葉書は川口市とは関係がありませんが、お譲りしようとした資料の中に入ってしまったようです。
しかし、こういう資料を大切に扱って下さる方、しかも今回は公的な機関にお譲りできましたのでうれしいです。
資料をお譲りする手続きのために資料館に伺った際、学芸員の方に常設展、企画展を一通りご案内していただきました。お忙しい中、贅沢な対応をしていただきありがとうございました。
企画展は「変わる街 変わる暮らし」(2019/1/16~3/10)というテーマで、1950年代から90年代辺りまでのおもちゃ、電気製品などの実物が展示されていて、非常に懐かしく楽しませていただきました。
12/24/2018
大正時代のブロマイド
今回は大正時代の頃のブロマイド風絵葉書3枚です。
まずは、女優の松井須磨子です。
写真の下には、右書きで
大正六年10月新富座(芸術座劇。お艶と新助)
娘お艶(松井須磨子)
と書かれています。
Wikipedia で松井須磨子を検索すると「主な出演記録」の項があって、大正6年(1917年)のところには、
まずは、女優の松井須磨子です。
写真の下には、右書きで
大正六年10月新富座(芸術座劇。お艶と新助)
娘お艶(松井須磨子)
と書かれています。
Wikipedia で松井須磨子を検索すると「主な出演記録」の項があって、大正6年(1917年)のところには、
10~11月 -『お艶と新助』(谷崎潤一郎原作、島村抱月脚色)お艶役と書かれていますので、まさにこの時の公演のものですね。
12/17/2018
ニューヨークの写真
今回の写真はハガキサイズですが、絵葉書ではありません。
両面印刷で、何か冊子を切り離したような感じです。
印刷時期はわかりませんが、自動車や飛行機の形を見ると第二次世界大戦前ですね。
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| Ellis Island, New York Harbor. |
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| New York Harbor from the Battery. Showing Statue of Liberty and Ellis Island. |
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| Panorama of Lower Manhattan and Bay from top of Woolworth Building, New York City. |
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| The Library, Columbia University, New York City. |
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| Skyline of Lower New York as seen from Jersey City. |
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| Columbus Circle, New York. |
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| Brooklyn Bridge and East River, New York. |
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| Elevated R. R. Curve at 110th Street, New York. |
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| General Post Office, New York. |
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| Cathedral of St. John the Divine, New York. |
11/26/2017
6/29/2013
六辻尋常小学校開校5周年記念写真
久しぶりに古絵葉書です。
今日は私の母校である六辻尋常小学校(現:さいたま市立南浦和小学校)の開校5周年記念のスタンプが押された絵葉書を紹介します。
まずは,六辻尋常小学校の歴史から…
明治7年4月1日:辻村和光院に辻学校として創設
明治36年5月18日:現在地に校舎を建設し開校
昭和9年4月6日:別所分校開校(1・2年児童収容)
昭和22年4月1日:浦和市立六辻小学校と改称
昭和32年11月1日:浦和市立南浦和小学校と改称、校歌制定
昭和43年4月1日:浦和市立辻小学校開校(児童477名移籍)
昭和47年4月1日:浦和市立文蔵小学校開校(児童559名移籍)
平成13年:さいたま市誕生によりさいたま市立浦和小学校と改称
明治36年5月18日に開校して,明治41年5月18日の5周年記念の日に先生,児童みんなが揃って校舎の前で記念撮影をしたということでしょう。児童はみんな着物ですね

実は,私の父方の祖父母,父も同じ小学校を卒業しています。
祖母は明治31年12月生まれでしたので,明治41年5月と言えば9歳で4年生の頃。だからきっとこの中に写っているのだと思います。
祖母は平成の初めに亡くなりましたが,この写真について話を聞いておけばよかったな,と思います。
この写真でもうひとつお話したいことがあります。
それは,後ろに写っている木造の校舎です。
実は,私の小学校1年生の時の教室はこの校舎でした。
画面から切れていますが,横長に5つの教室があって一番左端の教室でした。
昭和41年11月7日の午前中,確か音楽の授業で木琴をたたいていた記憶がありますが,轟音とともに床が傾きました。
担任の先生が廊下に飛び出して様子を確認すると,「何も持たなくていいからすぐに校庭に逃げなさい,靴は履き替えなくていいから!」と叫んだような気がします。
校舎の下には,校舎と直交するようにJR武蔵野線(当時は国鉄)が通っています。当時はまだ開通前でトンネル工事をしていました。
それが落盤して,横長の校舎の真ん中で二つに折れるように崩れ落ちたのです。
児童は全員無事避難,二つ折れの所には教壇があってそこに立っていた女の先生が下に落ちたのですが,トンネルの中にいた工事関係者にすぐに救助され,軽傷で済みました。
奇跡としか言いようがありません。
当時の新聞(埼玉新聞昭和41年11月8日朝刊1面)を紹介します。

絵葉書と同じ校舎であることがおわかりいただけると思います。
私は,南浦和小学校に改称された後のわずか6年間を過ごしただけでしたが,1年生の時の校舎の陥没事故,3年生になる時に辻小学校開校
に伴い,学校が二つに分けられ,卒業時にも文蔵小学校が開校しさらに二つに分けられるという,130年を超える同小学校にとって激動の6年間だったと思います。(ちょうど埼玉県南部の人口が急上昇した時期でしょうか。)
でも,もっと早くこの絵葉書があることを知っていれば,祖母や父にたくさんのことを聞けたのに,と思うとちょっと残念です。
今日は私の母校である六辻尋常小学校(現:さいたま市立南浦和小学校)の開校5周年記念のスタンプが押された絵葉書を紹介します。
まずは,六辻尋常小学校の歴史から…
明治7年4月1日:辻村和光院に辻学校として創設
明治36年5月18日:現在地に校舎を建設し開校
昭和9年4月6日:別所分校開校(1・2年児童収容)
昭和22年4月1日:浦和市立六辻小学校と改称
昭和32年11月1日:浦和市立南浦和小学校と改称、校歌制定
昭和43年4月1日:浦和市立辻小学校開校(児童477名移籍)
昭和47年4月1日:浦和市立文蔵小学校開校(児童559名移籍)
平成13年:さいたま市誕生によりさいたま市立浦和小学校と改称
明治36年5月18日に開校して,明治41年5月18日の5周年記念の日に先生,児童みんなが揃って校舎の前で記念撮影をしたということでしょう。児童はみんな着物ですね

実は,私の父方の祖父母,父も同じ小学校を卒業しています。
祖母は明治31年12月生まれでしたので,明治41年5月と言えば9歳で4年生の頃。だからきっとこの中に写っているのだと思います。
祖母は平成の初めに亡くなりましたが,この写真について話を聞いておけばよかったな,と思います。
この写真でもうひとつお話したいことがあります。
それは,後ろに写っている木造の校舎です。
実は,私の小学校1年生の時の教室はこの校舎でした。
画面から切れていますが,横長に5つの教室があって一番左端の教室でした。
昭和41年11月7日の午前中,確か音楽の授業で木琴をたたいていた記憶がありますが,轟音とともに床が傾きました。
担任の先生が廊下に飛び出して様子を確認すると,「何も持たなくていいからすぐに校庭に逃げなさい,靴は履き替えなくていいから!」と叫んだような気がします。
校舎の下には,校舎と直交するようにJR武蔵野線(当時は国鉄)が通っています。当時はまだ開通前でトンネル工事をしていました。
それが落盤して,横長の校舎の真ん中で二つに折れるように崩れ落ちたのです。
児童は全員無事避難,二つ折れの所には教壇があってそこに立っていた女の先生が下に落ちたのですが,トンネルの中にいた工事関係者にすぐに救助され,軽傷で済みました。
奇跡としか言いようがありません。
当時の新聞(埼玉新聞昭和41年11月8日朝刊1面)を紹介します。

絵葉書と同じ校舎であることがおわかりいただけると思います。
私は,南浦和小学校に改称された後のわずか6年間を過ごしただけでしたが,1年生の時の校舎の陥没事故,3年生になる時に辻小学校開校
に伴い,学校が二つに分けられ,卒業時にも文蔵小学校が開校しさらに二つに分けられるという,130年を超える同小学校にとって激動の6年間だったと思います。(ちょうど埼玉県南部の人口が急上昇した時期でしょうか。)
でも,もっと早くこの絵葉書があることを知っていれば,祖母や父にたくさんのことを聞けたのに,と思うとちょっと残念です。
10/14/2012
市長會記念写眞
今日ご紹介するのは「市長會記念写眞」です。2枚あります。
2枚とも私の祖父が写っていますが,市長だったわけではありません。当時川口市役所(埼玉県)に努めていたので同行させてもらっていたのだと思います。
2枚の写真とも日付と場所が記載されていませんが,写っている風景や写真と一緒に保存してあった封筒などからある程度推測できます。
(今後,時間があるときにでも,もう少し突っ込んで調べてみたいと思いますが…)
ところで「市長會」って何?
全国市長会のHPからその沿革を引用しますと,以下の通りでした。
それでは,1枚目の写真です。

写真に「第三拾六回全國市長會記念撮影」と書いてあります。前述の全国市長会のHPの情報から推測すると昭和11年に開催されたようです。
また,写真を包んでいた封筒には「川口市役所御中 市長會記念写眞在中二葉 富山市役所」と記載されており,また,写真そのものにはエンボス加工で「富山寫眞舘 島川義雄」と押されています。
今も写真屋さんとして続いているのかどうかはわかりません。
次に,2枚目の写真です。

写真には特に年代を特定する情報は記載されていませんが,写真を収めていた封筒に手書きで「市長会議記念写真在中 高知市」と書かれており,また,封筒そのものには「高知市本町下二丁目 溝淵寫眞舘 電話一七七七番」と印刷されています。
前述の全国市長会のHPからは高知市で開催されたがいつなのかはわかりません。
今度,全国市長会の事務局さんにでも問い合わせてみたいと思います。
さて,この場所はどこなのか?ということで,中央の銅像を拡大してみると「板垣退」という文字が何とか読み取れました。
そこで高知市,板垣退助像で検索すると「高知公園」であることがわかりました。
(高知の方なら見ただけでお分かりだと思いますが,私は高知に行ったことがなく…)
でも,今の銅像は戦時中の昭和18年に金属回収のため供出されることになり、昭和31年に再建されたもののようです。
この写真に写っているのは大正12年12月5日に除幕されたものということですので,高知市開催の全國市長會はそれ以降に開催されたのは確かなようです。
(ところで板垣退助像の新旧の写真を比べると今のほうが右手を高く上げて指さしているように見えます。)
インターネット検索を使うとわずかな手がかりでも古い写真のことがわかるものですね。
2枚とも私の祖父が写っていますが,市長だったわけではありません。当時川口市役所(埼玉県)に努めていたので同行させてもらっていたのだと思います。
2枚の写真とも日付と場所が記載されていませんが,写っている風景や写真と一緒に保存してあった封筒などからある程度推測できます。
(今後,時間があるときにでも,もう少し突っ込んで調べてみたいと思いますが…)
ところで「市長會」って何?
全国市長会のHPからその沿革を引用しますと,以下の通りでした。
明治22年4月1日、「市制町村制」の施行と同時に全国に31市が誕生しました。 明治31年5月18日、岐阜市において関西各市の代表が集った際、関西各市聯合協議会の設置が決定され、毎年1回会議を開催し、諸問題について協議することとされました。 この関西各市聯合協議会が全国市長会の発祥です。その後、毎年1回、各都市の持ちまわりで会議が開かれました(明治37、38年は日露戦争のため開催されず)。
上記の「関西各市聯合協議会」が、「全国市長会」になるまでの変遷は次のとおりです。。
日露戦争後の明治39年11月に奈良市で開かれた第7回会議において、全国の市(北海道と沖縄を除く)を会員とすることとし、その名称が全国各市聯合協議会に改められました。
大正3年11月に京都市で開かれた第14回会議では、北海道、沖縄の各区(北海道、沖縄 では市制でなく区制が施かれていた)についても会員とするため、名称が全国各市区聯合協議会に改められました。
その後、北海道、沖縄でも市制が施かれたことから、大正12年10月に静岡市で開かれた第23回会議において、名称が再び全国各市聯合協議会に改められました。
昭和5年5月に宇治山田市(現在の伊勢市)で開かれた第30回会議では、大幅な機構改革を行うとともに、名称を全国市長会と改め、今日に至っています。
それでは,1枚目の写真です。

写真に「第三拾六回全國市長會記念撮影」と書いてあります。前述の全国市長会のHPの情報から推測すると昭和11年に開催されたようです。
また,写真を包んでいた封筒には「川口市役所御中 市長會記念写眞在中二葉 富山市役所」と記載されており,また,写真そのものにはエンボス加工で「富山寫眞舘 島川義雄」と押されています。
今も写真屋さんとして続いているのかどうかはわかりません。
次に,2枚目の写真です。

写真には特に年代を特定する情報は記載されていませんが,写真を収めていた封筒に手書きで「市長会議記念写真在中 高知市」と書かれており,また,封筒そのものには「高知市本町下二丁目 溝淵寫眞舘 電話一七七七番」と印刷されています。
前述の全国市長会のHPからは高知市で開催されたがいつなのかはわかりません。
今度,全国市長会の事務局さんにでも問い合わせてみたいと思います。
さて,この場所はどこなのか?ということで,中央の銅像を拡大してみると「板垣退」という文字が何とか読み取れました。
そこで高知市,板垣退助像で検索すると「高知公園」であることがわかりました。
(高知の方なら見ただけでお分かりだと思いますが,私は高知に行ったことがなく…)
でも,今の銅像は戦時中の昭和18年に金属回収のため供出されることになり、昭和31年に再建されたもののようです。
この写真に写っているのは大正12年12月5日に除幕されたものということですので,高知市開催の全國市長會はそれ以降に開催されたのは確かなようです。
(ところで板垣退助像の新旧の写真を比べると今のほうが右手を高く上げて指さしているように見えます。)
インターネット検索を使うとわずかな手がかりでも古い写真のことがわかるものですね。
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