昭和4年(1929年)4月20日、六辻村(現在の埼玉県さいたま市南区の一部)教育会長から高齢者慰安会において曽祖父に喜寿を祝って贈られた「敬老状」です。
曽祖父は昭和14年に87歳で亡くなったそうですが、昭和初期の時代では、かなり長寿だったと思います。
京北高等歯科医学校長、大久保通次氏は学校長としての人格を持つだけに同校の発展を見ている。元埼玉会館前に新築開校されたものだが、今は大宮町に移校されて爾来発展を続けている。同校は男子にて歯科医師たらんとするものは必須な学術を教授するを目的とされ、今や数百の卒業生を出して成績優秀さは氏の熱心なる賜である。歯科医学校の校長先生もなさっていたのですね。現在大宮区に同名の歯科があり、HPを拝見すると、院長さんのおじいさまが昭和16年に開業されたとあります。埼玉評論のこの雑誌には、昭和13年の時点で既に大宮町に移ったとありますので直接の関係はないのかもしれません。
我浦和が、県下他どの町にも見られぬ特殊な姿を持っていることは、何人の眼にも一目瞭然である。県庁所在地であり、教育都市と言い、住宅町と言う。
これをして浦和の三大特徴と言えようが、いずれも非生産的欠点を持つ替りに文化的発達を約束する長所を有する。
(中略)
更に浦和は今一つの黎明を返えんとしている。そのことに就いて本誌本文中書く所にふれてあるからここにくどくどしく述べぬが、即ちこの地を取巻いて素晴らしい勢いで近代的大工業が開発されんとしていることである。
つまり県庁所在地、教育都市、住宅町と言う三大特徴の上に工業都市の名が更に一枚加えられんとしているのである。
それが与える諸種方面への影響は言うまでもない。この期に処するに、適正誤またざる方策が得られたはじめて浦和の発展は無限と信じる。
専門家をわずらわして浦和の過去を知り、幾多諸機関及び有識者等を動かして浦和の現勢全貌を伝え、同時にその将来に対する諸覧の意見を紹介したこの一本が必ずやその参考となることを信ずるのである。当時の浦和市は今は大宮市、与野市、岩槻市と合併しさいたま市となりましたが、今でも県庁所在地、教育都市、住宅都市というのが 旧浦和市の一般的なイメージです。
前からあった意見だったが、去年の暮あたりから再び浦和、与野、大宮を合併して埼玉市を作れと言う与論が今度は可成り現実性を帯びて叫ばれだした。そこで我々はどうせなら川口、鳩ケ谷、蕨も加えて大埼玉市を作る可きだと唱えた。それかあらぬか、浦和、与野、大宮説が消えて大埼玉市建設案が真面目に考えられつつある。 (以下略)驚くことに、さいたま市構想というのが戦前からあったんですね。