まずは「浦和の郷土史」埼玉県史編纂主事による3ページの記事です。
●古代~大和時代・奈良時代・平安時代
- 浦和の地名が浦輪即ち彎曲した海の入江から来たことは明らかである。
- 成務天皇(13代天皇)の御代に武蔵国造が任命され、その拠点が現在の鴻巣辺りで南方への開発に力が注がれた。光仁天皇(49代天皇)の宝亀2年、それまで東山道に属していた武蔵が東海道に属せられ、中央政府からの公の交通が南方に向けられるに及び鴻巣以南の大宮、浦和の交通が非常に開けてきた。伊勢大廟の調貢を司るところが浦和岸にでき、後にそれが調神社となったのが既に奈良時代であるから、その当時の浦和が江戸湾の一港として物資の積出しに都合がよかったとみられる。(←浦和が港町だったとは驚きです!)
* これについてはWikipediaの記載と異なるように読める。Wikipedia「浦和宿」では「浦和宿の少し手前岸村(現在の岸町)にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。 しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。」とある。 - 奈良時代には朝鮮から帰化した人々が浦和とは江戸湾の一江を隔てた新羅郡に住んでいたので、大陸文化の影響を受けることも多かった。大化改新で施行された条理制度の遺構が与野の近くに見られる。
- 平安の時代の初めには玉蔵院が創建された。平安時代より地方に興った荘園と武士は浦和地方にもその開拓の手を容れ、木崎領家、地頭方などの地名が見られるに至っている。
- 太田窪の守光院縁起や玉蔵院の寂堂の奥書である調宮縁起には鎌倉時代の浦和地方の武士の活躍が記されている。武士の居館跡が残っていたり、堀ノ内、館ノ内などの地名からもそれらを窺い知ることができる。
- 足利時代、武蔵は戦乱争奪の中心地であり正確な郷土史を知る材料は少ないが、記録に残る川越、岩槻などの戦火の状況からは浦和も幾分の被害は免れなかっただろう。
- 天正18年豊臣秀吉が小田原北条氏を征する頃、これまで北条氏に服していた各地の人々は、鉾を収め秀吉に従ったり或いは戦争より遁れて隠れ農民となった。浦和宿の旧名主星野家の由緒書を見ると、祖先が北条家の臣の婿養子となったが、豊臣方に召し出され小田原攻めの道案内をしたとあり、その後武士となって姓を星野と改めたとある。
- 家康が関東八州を得て入国するに際し、家康は岩槻城主に浦和の地を預け幕府の直領とした。浦和には市場の取立を許され、星野家は市場取締り役として活躍した。浦和代官中村彌右衛門は、非常に善政を布いて浦和地方の発展に努力した。その建立した寺が木崎の廓信寺である。
- 二代将軍の元和年間の浦和の様子は、芝村長徳の寺住職が記しており、中山道の一駅として相当に人馬往来があったものの、その繁栄は熊谷、大宮には及ばなかった。
- 明治維新に際して、岩槻藩の統治を脱して武蔵県、明治2年1月には大宮県となり県庁は東京馬喰町、出張所が大宮町にあった。
- 明治2年9月には浦和県と改称し、県庁を浦和に移して翌3月より事務を開始。
- 明治4年7月に廃藩置県、10月には一時群馬県の名の下にあったが、間もなく埼玉県となり埼玉郡と足立葛飾両郡の一部がそれに属すこととなった。明治4年12月、県令(今の県知事)が県内を巡視し県庁を岩槻に置くことを決めたが、地利の都合上、一時的に浦和にある県庁を用いることとなった。
- 明治元年、3年の明治天皇の武蔵一宮氷川神社への行幸参拝の際、浦和本陣にお泊りなられた。かかる光栄と、岩槻が交通上やや不便であるため、県庁は岩槻に引っ越しせず、一時的な出張仮事務所が遂に後の埼玉県庁となった。
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