7/16/2013

アンティーク絵葉書 まだまだ続く・・・(その1)

今回のアンティーク絵葉書は,その他もろもろ編(その1)です。
これまで,夕張,静岡,箱根,軍事演習とかテーマごとにご紹介してきましたが,特にまとまった枚数が揃っているわけではなく,場所も時代もバラバラな絵葉書を脈絡なくご紹介します。

(岡山名勝)後樂園中之島
通信面のデザインから明治後期から大正中期の頃の絵葉書と思われます。
後楽園には行ったことがありませんが,この面影は今も残っているようですね。
中央手前の道に鶴が一羽います。


一ノ谷敦盛塚ト蕎麥屋(須磨名所)
これも時代としては,明治後期から大正中期と思われます。
源平合戦で命を亡くした平敦盛の供養の塔の「そば」にあるお蕎麦屋さんです。
のれんや看板を見ると「一ノ谷名物敦盛そば」と書いてあるのでしょうか?
このお蕎麦屋さんも当時とはすっかりと面影を変えているようですが,同じ場所で営業されているそうです。
ところで,ネットで敦盛塚を調べると「高さ約3.5メートルの五輪の石塔」と書かれています。
この写真の奥の石塔を見ると,とても3.5メートルもあるようには見えませんし,また,石も五段(五輪)ではなく三段しか積まれていないようにしか見えません。
最近の写真には,この写真に写っている石塔の上にもう一つ丸い石が,そして,一番下には四角い大きな石が写っています。
上の丸い石は,影でよく見えないだけなのかもしれませんが,下の大きな四角の石はどう見てもそこに存在しているようには思えません。
一部地面に埋め込まれているのか,何らかの理由で別置きにされているのか?


神戸居留地の景
神戸の外国人居留地は,安政五カ国条約に基づき慶応3年から明治32年までの間、設けられたそうです。
この絵葉書の発行された時期は,おそらく明治後期から大正中期と思われますが,ここに写っている人はみんな洋装ですね。
これまで,同じ時代の絵葉書ではほとんど洋服の人を見かけないので,本当に別世界だったのでしょう。
道路の交差点には白い線が引かれていますが,舗装されているようには見えません。
荷車が中心ですね。


伏見稲荷神社樓門
京都の伏見稲荷大社の楼門です。
これも明治後期から大正中期の絵葉書と思われます。
伏見稲荷大社のHPによれば,この楼門は天正17年(1589年)豊臣秀吉の造営とされていて,昭和48年(1973年)に解体修理が行われたそうです。
よく見ると多少デザインが変わっているのがわかりますが,その立派な構えは今も昔もなんら変わるところはありません。


とりあえず,本日はここまで。主に西日本を取り上げました。
次回は,箱根から東を中心に取り上げます。

7/15/2013

今日のアンティーク絵葉書は絵画です

今日は建物や風景の絵葉書ではありません。
第十一回文部省美術展覽會で出品された作品です。

文部省美術展覽會は,第1回目が明治40年に開催されたので,第11回というと大正6年に開催されたことになります。

この「文展」は翌年大正7年第12回文展まで続き,その後変遷を経て現在の「日本美術展覧会(日展)」に続いているとのことです。

以下の4枚は,いずれも後世に名を残す方ばかりです。
1枚目の結城素明氏は第10回文展でも特選を受賞し,2年連続の受賞となりました。

(特選)八千ぐさ(其一) (東京)結城素明氏筆



白馬岳八題 (東京)寺崎廣業氏筆



薩南六題(其二) (東京)山内多門氏筆



献燈(其一) (京都)不動立山氏筆




これらのカラーの写真をネットで探しましたが,残念ながら見つかりませんでした。

どちらかの美術館で展示されているようでしたら,一度実物を鑑賞したいものです。

7/14/2013

アンティーク絵葉書 千葉犬吠埼

今日は,名勝地の絵葉書で,千葉県から犬吠埼の海水浴場と旅館です。

「海水浴旅舘暁雞舘之全景」


銚子犬吠岬海水浴旅舘暁雞舘廣間ノ一部


絵葉書の裏側のデザインから明治43年~大正7年の頃の絵葉書だと思われます。

犬吠岬の暁雞舘という旅館,外観も内装もしっかりとした旅館です。
さっそく,インターネットで検索してみますと,ありました!


海辺のくつろぎの宿
ぎょうけい館

創業明治七年
寄せてはかえす白い波・・・
はるか遠くより聴こえくる潮騒の響き。
美しく,壮大なる景観に時を忘れしみじみと旅情に浸るひととき。
悠久の昔から数多くの文人・貴顕に愛され,
今 なお「智恵子抄」の思いが息づく老舗宿,
趣深く,由緒正しき名館・・・ぎょうけい館。



明治7年創業ですからとても歴史のある旅館ですね。
アンティーク絵葉書には,時々旅館や商店を題材としたものがありますが,現在まで継続して営業されているものは多くありません。

いつか機会があれば,泊りに行ってみたいと思います。
(もう50歳を過ぎて,海水浴という年でもありませんので,日の出や新鮮なお刺身を楽しみに行くというのがお勧めでしょうかね?)

ところで,1枚目の写真ですが,当時の水着の女性でも写っているのではないか,と拡大鏡で調べてみました。
もう海の日ですものね。

男も女も日傘を指して,着物を着たまま海を眺めている,という感じですね。
20人くらいでしょうか? 子供はいないみたいです。
すごーくのんびりしています。泳いでいる人は見当たりません。
これだけ広い砂浜を,独占しているようで羨ましいです。



7/13/2013

「大東亜の建設」お譲りしました

先日,戦後GHQ(連合国軍総司令官総司令部)により「焚書」指定を受けたという「大東亜の建設」という書籍についてご紹介しました。

偶然,このような本に非常にご興味を持たれ,研究されておられる方とお話しすることができまして,7月11日にお譲りいたしました。

私が持っていても,豚に真珠,猫に小判というわけで,その価値をご理解いただける方に引き取っていただき,うれしい限りです。

私のブログをご覧になって,ご興味のある本がございましたら,ご遠慮なくお問い合わせください。

7/12/2013

アンティーク絵葉書 千葉県成田山

さて,今回のアンティーク絵葉書は,千葉県成田山です。

成田山本堂ト鐘樓 (下總成田梅屋旅舘發行)


成田山こわれ不動及水行場 (下總成田梅屋旅舘發行)


成田山三重塔及千葉縣物産陳列場 (下總成田梅屋旅舘發行)


通信面のデザインから,明治末期から大正半ばに発行されたものと思われます。

いずれも下總成田梅屋旅舘発行となっています。

いつものようにインターネットで検索すると…
ありました,ありました,梅田旅館が見つかりました。
成田山の参道ですね。

Google Earthで旅館の外観を拝見すると,期待通り,長い歴史を感じさせる木造3階建の立派な構えです。

絵葉書には「非売品」と書いてありますので,宿泊者にお土産として配っていたのでしょうか?

成田山のような神社仏閣はそれぞれ昔も今もその面影を残しながら引き継がれていることと思いますが,旅館や商店などは必ずしもそうとは限りません。
昔の面影を残すことなく最新のデザインに変わってしまったり,場合によっては全く別の物(建物)に変わってしまうことさえあります。

アンティーク絵葉書を整理していて,写真の題材そのものよりも,今回の絵葉書のように,発行した旅館や写真館の方に自分の興味が移りつつあるような気がします。

6/29/2013

六辻尋常小学校開校5周年記念写真

久しぶりに古絵葉書です。

今日は私の母校である六辻尋常小学校(現:さいたま市立南浦和小学校)の開校5周年記念のスタンプが押された絵葉書を紹介します。

まずは,六辻尋常小学校の歴史から…

明治7年4月1日:辻村和光院に辻学校として創設
明治36年5月18日:現在地に校舎を建設し開校
昭和9年4月6日:別所分校開校(1・2年児童収容)
昭和22年4月1日:浦和市立六辻小学校と改称
昭和32年11月1日:浦和市立南浦和小学校と改称、校歌制定
昭和43年4月1日:浦和市立辻小学校開校(児童477名移籍)
昭和47年4月1日:浦和市立文蔵小学校開校(児童559名移籍)
平成13年:さいたま市誕生によりさいたま市立浦和小学校と改称

明治36年5月18日に開校して,明治41年5月18日の5周年記念の日に先生,児童みんなが揃って校舎の前で記念撮影をしたということでしょう。児童はみんな着物ですね



実は,私の父方の祖父母,父も同じ小学校を卒業しています。
祖母は明治31年12月生まれでしたので,明治41年5月と言えば9歳で4年生の頃。だからきっとこの中に写っているのだと思います。
祖母は平成の初めに亡くなりましたが,この写真について話を聞いておけばよかったな,と思います。

この写真でもうひとつお話したいことがあります。
それは,後ろに写っている木造の校舎です。

実は,私の小学校1年生の時の教室はこの校舎でした。
画面から切れていますが,横長に5つの教室があって一番左端の教室でした。

昭和41年11月7日の午前中,確か音楽の授業で木琴をたたいていた記憶がありますが,轟音とともに床が傾きました。
担任の先生が廊下に飛び出して様子を確認すると,「何も持たなくていいからすぐに校庭に逃げなさい,靴は履き替えなくていいから!」と叫んだような気がします。

校舎の下には,校舎と直交するようにJR武蔵野線(当時は国鉄)が通っています。当時はまだ開通前でトンネル工事をしていました。
それが落盤して,横長の校舎の真ん中で二つに折れるように崩れ落ちたのです。

児童は全員無事避難,二つ折れの所には教壇があってそこに立っていた女の先生が下に落ちたのですが,トンネルの中にいた工事関係者にすぐに救助され,軽傷で済みました。
奇跡としか言いようがありません。

当時の新聞(埼玉新聞昭和41年11月8日朝刊1面)を紹介します。



絵葉書と同じ校舎であることがおわかりいただけると思います。

私は,南浦和小学校に改称された後のわずか6年間を過ごしただけでしたが,1年生の時の校舎の陥没事故,3年生になる時に辻小学校開校
に伴い,学校が二つに分けられ,卒業時にも文蔵小学校が開校しさらに二つに分けられるという,130年を超える同小学校にとって激動の6年間だったと思います。(ちょうど埼玉県南部の人口が急上昇した時期でしょうか。)

でも,もっと早くこの絵葉書があることを知っていれば,祖母や父にたくさんのことを聞けたのに,と思うとちょっと残念です。

6/21/2013

GHQ「焚書図書」

半年以上ご無沙汰してました。

さて,今日はなんやらすごいタイトルですが,ワック出版の月刊誌「歴史通」5月号に,「GHQ『焚書図書』個人蔵全公開」というカラー特別企画が掲載されていました。

戦後,GHQ(連合国軍総司令官総司令部)により「焚書」処分にされた本を集めた方のコレクションが紹介されたものです。

それを読んでいたら,どこかで見かけた本が…

表紙の半分がオレンジ色で,タイトルが「大東亜の建設」。

そうです,2年前,2011年6月25日のこのブログで紹介した本でした。(写真が掲載されていますので,ぜひご覧ください。)

当時は,この本がそんな焚書でGHQから没収されるような本であるとはつゆ知らず,ただ,表紙を撮影して紹介しただけでした。

GHQが没収しなければならないほど過激な内容なのか,一度読んでみようと思います。