10/27/2018

教育同志会編集 中等国語読本字引 第二学年用

明治37年(1904年)5月31日発行の教育同志会編集「中等国語読本字引」第二学年用です。

当時の中学校は12歳から5年間だったと思いますので、13歳用ということでしょう。
当時の漢字は今よりもずっと画数が多いので、ざっと見た感じでは13歳よりももっと上の年齢の生徒向けの図書の印象を受けました。


表紙をめくると「凡例」が出てきます。

一、本書は現時全国中学校に於て、其最も多く教科書として採用せられつつある中等国語読本を選み、其れに採録せる文章辞句に対し、専ら通俗的に解釈を試みたるなり。
一、中等国語教科書は十巻より成り、其の巻一巻二は一学年用に、巻三巻四は二学年用に、巻五巻六は三学年用に、巻七巻八は四学年用に、巻九巻十は五学年用に採定せらるるもの。本書は之に倣ひ、一学年に一冊、即ち全五冊にて完成するものなり。 
一、本書は中学教員及び在学生徒の研究の備考に充つるの目的なるのみならず、補習科諸生の座右欠くべからずを信ず。若し夫れ、山間僻陬の地に在り入校及び師を聘するに便ならざるの学子は本書に依って独習の精を研くべく。共に修業の彼岸に到るの利益を得ば編者の幸甚とするところなり。
教育同志会 
とありますので、教科書そのものではなく参考書のようです。







本文は、こんな感じです。
凡例にあったように、教科書である中等国語読本の文章から語句を抽出して、その読みや意味を解説しています。

しかし、前にも書きましたが13歳向けの図書としては難しいですね。いくつか紹介すると、

農業 ノウギャウ ○五穀ヲ作ルワザ
霄壤の差異 セウジヤウノサヰ ○天ト地ノチガヒ
屈曲偃蹇 クツキョクエンケン ○マガリカガム
碩學鴻儒の輩 セキガクカウジユノハイ ○學問ガ廣く高キ人々

というような感じです。


そして奥付です。
編集された教育同志会については、ネット検索してもヒットしませんでしたが、編集兼発行代表者の大月隆氏については、いくつかヒットしました。
著作がいくつかありますが、大月隆氏の人物像について記された情報はほとんどありませんでしたが、大月隆に関する研究論文が見つかりました。

もう一つの『文章世界』 -大月隆と文学同志会のことども-, 宗像 和重, 早稲田大学大学院文学研究科紀要 63, 1138-1119, 2018-03-15, 早稲田大学大学院文学研究科



それによれば、
大月隆は、明治二十年代後半から積極的な著作活動をおこなうとともに、文学同志会を起こして出版活動にも取り組んだ人物だが、その履歴や人物像については、ほとんど知られていない。
とあります。
本人そのものの記録がほとんど残っていない中、非常にご苦労されて調査された興味深い論文です。しかも、今年発表されたばかりなんですね。

古書をいろいろと調べていると、このような出会いがあり、楽しませていただいています。












10/21/2018

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)【続き】

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)の続きです。
私の住んでいるさいたま市(旧浦和市)を見ると、当時の地名が今もほとんど残っています。
浦和、大宮、与野、岩槻が合併して、区制が施行された時に昔ながらの地名が消えてしまうという話もありましたが、本当に嬉しいことです。
また、大宮氷川神社、浦和の調神社、玉蔵院、埼玉県庁もあります。
玉蔵院のすぐ北には郡役所もあります。
(この地図には足立郡と記載されていますが、Wikipediaによると明治11年に足立郡の東京府の範囲が南足立郡として分離し、この地図が発行される前年の明治12年に残された埼玉県の範囲が北足立郡となり、足立郡は消滅しています。)

新訂 埼玉県管内全図(中央部拡大)

この地図を見ると北の地方に向かう鉄道がくっきりと書かれています。
明治13年当時、鉄道は新橋〜横浜が開通したばかりで、これらの鉄道はまだ出来ていなかったはず。
でも、この地図には…

新訂 埼玉県管内全図(北部拡大)


よく見ると、これ後から書き込まれた線路です。
地図上の地名を辿ってみると、以下の通りでした。

上野(明治16年7月28日開業)
~大宮(明治18年3月16日)
~久喜(明治18年7月16日)
~栗橋(明治18年7月16日)
これは現在の東北本線ですね。

大宮(明治18年3月16日開業)
~熊ヶ谷(熊谷:明治16年7月28日)
~本荘(本庄:明治16年10月21日)
~新町(明治16年12月27日)
これは現在の高崎線です。

熊ヶ谷(熊谷:明治34年10月7日開業)
~石原(明治34年10月7日)
~大麻生(明治34年10月7日)
~田中(武川:明治34年10月7日)
~小前田(明治34年10月7日)
~寄居駅(明治34年10月7日)
これは現在の秩父鉄道秩父本線です。

千住(北千住:明治32年8月27日開業)
~草加(明治32年8月27日)
~粕壁(春日部:明治32年8月27日)
~久喜(明治32年8月27日)
~加須(明治35年9月6日)
現在の東武伊勢崎線です。

もう一つ川越から南下する線が書き込まれています。

川越(本川越:明治28年3月21日開業)
~大塚(南大塚:明治30年11月14日)
~入間川(狭山市:明治28年3月21日)
~南入曽(入曽駅:明治28年3月21日)
~所澤(所沢:明治28年3月21日)
おおむね現在の西武新宿線ですが、所澤より南側は、地図の地名を辿っていってもよくわかりません。
所澤の南、久米という地区の西側から荒畑(現在の荒幡か?)の西側までというと、現在の西武池袋線から西所沢駅を経由して西武狭山線辺りまでという感じです。
明治の中期までに開通していた路線としては今の西武新宿線、国分寺線ですが、西所沢駅は大正4年の開業(開業当時は小手指駅)ですので、ちょっと時期がずれています。

ということで、明治13年発行の埼玉県管内全図に、明治35年頃までの情報をおそらく私のご先祖様が書き込んだものと思われます。
鉄道が通る地名を結んで書いたのだと思いますが、こういう細かいことが好きな性格が子孫の私に伝わっているのでしょう。

10/20/2018

新訂 埼玉県管内全図(明治13年3月30日発行)

明治時代の地図が出てきました。
新訂 埼玉県管内全図」で明治13年3月30日発行です。
明治13年(1880年)といえば、私が生まれる80年前で、私の祖父が生まれるよりも前です。結構見どころ満載ですね。

まず、明治13年当時の埼玉県の状況をWikipediaで押えておくことにしましょう。
  • 慶応4年(1868年) - 6月19日、忍藩士の山田政則が武蔵知県事に就任、旧幕府領を管轄する。
  • 明治2年(1869年) - 1月10日、山田政則知県事が宮原忠英に交代。1月13日、宮原知県事の管轄地域に大宮県を設置し、県庁は東京府馬喰町に置かれる。9月29日、県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。
  • 明治4年(1871年) - 7月14日、廃藩置県を受けて藩領に川越県忍県岩槻県の3県が誕生。11月14日、忍県・岩槻県・浦和県の3県が合併して埼玉県が誕生(足立郡・埼玉郡・葛飾郡の一部。現在の東部地域に相当)。同日、川越県は品川県の一部を吸収して入間県となる(現在の西部地域・北部地域・秩父地域に相当)。埼玉県の県庁所在地は埼玉郡岩槻町(現さいたま市岩槻区)とされたが、適する建物が無く、旧浦和県庁を流用する形で浦和宿(現さいたま市浦和区)に県庁が置かれた。入間県の県庁は川越城に置かれた。
  • 1873年(明治6年) - 入間県が群馬県と合併し熊谷県となる。熊谷県の県庁は熊谷駅(現熊谷市)に置かれた。
  • 1876年(明治9年) - 熊谷県は解消され旧入間県の地域は埼玉県と合併、現在の埼玉県が成立
  • 1883年(明治16年)7月28日 - 日本初の私鉄「日本鉄道」(東北本線・高崎線上野駅-熊谷駅間)が開業し、浦和駅・上尾駅・鴻巣駅・熊谷駅が開業。

まず表紙です。
12×18cmのボール紙2枚をそれぞれ一方の長辺の両端、中央を紐で結び、見開き本のようにした台紙の間に、この赤い一枚紙の表紙と折り畳まれた地図が挟まっています。
編集は諸井興久、根岸武香。
ネットで調べると、お二人とも埼玉県の郷土史を語るうえでは欠かせない名士です。
Wikipediaで当たってみると…
幕末期の当主であった諸井五左衛門興久は、1889年(明治22年)の町制施行の時、初代本庄町長に就任した、とあります。
また、根岸武香は、明治12年(1879年)に埼玉県議会開設と共に県会議員に選出されて副議長、その後第2代議長、第10代議長を務め、明治27年(1894年)には貴族院多額納税議員に選出された、とあります。また、吉見百穴の発掘に参加し保存に努めると共に、これを世間に紹介された、とあります。


地図の全体像です。
埼玉県管内全図ではありますが、今の埼玉県よりも随分広い範囲が描かれています。
南は横須賀、逗子の境界当たりまで。
西は秩父、北は群馬との県境、東は江戸川沿いの千葉との県境まで。
江戸川と利根川の間の千葉県野田市の一部も含まれています。
東京湾はまだ埋立て前で、鉄道は芝~高輪~品川あたりで海の上を通っています。
海岸線は築地の辺り。佃島や石川島、お台場は海の中ですね。
道路のように見えるのは川ですね。新宿から西の方角へまっすぐ続くのは玉川水道(玉川上水)です。

これは、地図の右下に書かれている凡例と奥付です。
凡例には今の時代には無くなってしまったものが書かれています。
国境、原野、鎮台、渡舟など。
鎮台はWikipediaによると、
鎮台(ちんだい)は、1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位である。
ということで、設置期間が僅か20年弱ですので、これが記載されている地図というのは珍しいのかもしれません。
また、原野というのも、開発しつくされた現在では見られませんね。
埼玉北部の現在の東松山市付近、所沢市北部~三芳町~川越市南部、小平市~立川市~福生市付近が原野の記号で表されています。

また、郵便局という二重枠のしるしがあります。
地図を見てみると、例えば私の住むさいたま市周辺では、川口、戸田、蕨、浦和、與野(与野)、大宮といった地名がこの二重枠の中に書かれています。
鉄道の駅と一瞬錯覚しましたが、これ、郵便局のある町、村を示しているようです。

いずれにしても、地名が、「郵便局」「宿駅」「町村」「枝村」という区分で表現されているのは面白いです。

奥付には、編集人の他、出版人、発売の名前が書かれていますが、住所の他身分(平民)まで書かれています。これらの方のお名前はネット検索すると当時の多くの書物の発行人、販売人としてヒットします。
欄外に小さな文字が見えるでしょうか?
「東京 本所 山中銅鐫」とあります。「鐫」という文字は初めて知りましたが、彫るという意味でした。銅版の地図なんですね。

少し長くなったので、今回はここまでにします。

10/14/2018

内閣情報局編集「週報」

戦時中に内閣情報部、後に情報局が発行した定期刊行雑誌「週報」が3部見つかりました。
結構ボロボロです。
中身は興味深い記事もありますが、旧字体、旧仮名遣いでの記載で、また、紙質がわら半紙のように茶色い上に活字の線が細く、老眼の私がそうたやすく読み通せるものではありません。
1冊当たりのページ数は50ページほどですが、結構厳しいですね。
ということで、記事の見出しが書かれている表紙の写真を中心に紹介します。

●第90号(昭和13年7月6日発行)


●第270号(昭和16年12月10日発行)
第270号は、昭和16年12月8日の「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」の直後に発行されたもので、表紙には大した記事の見出しは書かれていませんが、この号には付録がついていて、そこには「詔書」に始まり、「帝国政府声明」、「東条内閣総理大臣のお言葉」、「日米交渉の経過」、「帝国政府の対米通牒」と続き、最後に国民に向けた「防空下令」が記されています。


●第270号付録
この付録は第270号に添付されていたのではなく事後に発行されたようで、第271号の編集後記に、「前号週報(12月10日号)に付録添付」、「本誌のみを入手された方は、適当な方法で本誌を購入された書店へご請求下さい。」とありました。


第270号付録巻頭の「詔書」

●第271号(昭和16年12月17日発行)
そして、第271号では、真珠湾攻撃の戦果についての報告がなされています。


いずれも非常に貴重な資料だと思います。


10/08/2018

ドイツ製内面研削盤の取扱説明書(1937年)

「MAR 22 1937」とスタンプが押されたドイツ語の小冊子が出てきました。
1937年ということは昭和12年。A5版横向きで十数ページのものです。


表紙には "BEDIENUNGS-ANWEISUNG" と書かれており、訳すと「取扱説明書」です。
そして、会社名は "K. JUNG, BERLIN", "MASCHINEN FABRIK" とあります。
JUNGはドイツの研削機械のメーカです。
そのHPをみると沿革が記されていて、1937年頃までの様子を調べると、
  • ベルリンにKarl Jung社設立。 ビジネス目的:高精度研削盤の開発(1919年)
  • 最初の油圧表面研削盤(1925)を発表
  • 独自の高精度スピンドルの生産を開始(1931年)
となっていて、ちょうど1931年に生産を開始した高精度スピンドルを採用した工作機械が1937年当時の販売の主力製品だったのでしょう。

さて、中身ですが、表紙を開くとこんな感じです。


タイトルを翻訳すると「内面研削盤モデルASの操作説明書」という感じでしょうか。
操作方法が詳しく書かれ、それを説明するための写真や外形図などが後ろに続きます。

しかし、ドイツ語の技術的な中身よりも私の気を引いたのは「株式会社山本商会」のスタンプです。そして右下には「MAR 22 1937」の日付印。
株式會社山本商會
東京市京橋區銀座二丁目壱番地
電話 京橋 (56) 一六二二・一六二三番
山本商会は今でもあるのでしょうか?
ネットを検索すると「山本商会」という会社はいくつかヒットするもののちょっと違うようです。
いろいろ巡って辿り着いたのが、現在のYKT株式会社でした。
YKT株式会社のHPを見ると、
  • 事業内容は「電子機器・工作機械・測定機器・溶接機械・産業機械の輸出入販売
  • 大正13年3月(1924年山本敬蔵氏、個人商店として築地に事業創業、昭和9年2月(1934年株式会社に改組
  • 昭和16年9月(1941年)山本工業株式会社に商号変更
  • 昭和24年2月(1949年)山本工業株式会社より工作機械類の輸入販売業務部門を分離し株式会社山本商会を再設立
とありますので、かなりいい線を行ってますが、残念ながらHPを見ても創業者の山本敬蔵氏が興した会社が「山本商会」であるという記載は見つかりませんでした。
(1949年に山本商会を再設立とは書いてあるんですが)

そこで山本敬蔵氏をネットで調べると、ありました。
広島県立福山誠之館高等学校の同窓会に山本敬蔵氏の名前があり、
 「実業家、山本商会社長
 「大正13年(1924年)38歳 山本商会創立
とあり、山本商会とつながりました。
とても歴史のある会社ですね。

いつもそうですが、ネットを使っていろいろと紐解いていくと、自分の生まれる前の出来事で今の自分とは何の関連のないことでも随分わかるものだなあ、と感心します。

ちなみに、なぜ昭和初期の時代の工作機械の取説がうちの物置にあるのかは、わかりません。さすがにネットで調べてもわからないでしょうね。

土木関係の図書(続きのその3です)

父の土木関係の書籍の紹介の3回目です。

これらの専門書は私が持っていても価値がなく、いずれは処分します。
もし、このブログを見て、気になる本がありましたら、コメント欄を使ってご連絡ください。(コメントは直ちに公開はされませんのでご安心ください。)

年末には処分いたしますので、ご了承ください。

これでしばらくこのシリーズは中断。
また、物置の片付けで土木関係の本が出てきたら、紹介します。

●ロングレール作業
【著者】伊地知健一
【発行】1963/06/15 (初版1963/06/15)
【出版社】鉄道現業社 【定価】¥450
著者は「日本国有鉄道施設局保線課長」で、まえがきに次のように書いています。
本書はその目的を現場作業員の教養に主眼をおいた。題して「ロングレール作業」としたゆえんである。
理論の本ではなく、保守基準、実際の作業、事故事例など保線作業に携わる方のためのテキストのような本なのでしょう。
ところで、私がおそらく小学生の頃だったと思います。父と東京に出かけた帰りの京浜東北線の電車の中での思い出です。蕨と南浦和の間だったと思います。
一番後ろの車両から車掌室の向こう側の線路を父と二人でずっと眺めていた時、父が
今走っている線路は普通の線路より長い。つなぎ目が少ないからガタンゴトン音がしなくて静かだろう?
と言いました。どこに行った帰りなのか、小学校何年生の時だったのか覚えていません。もちろんロングレールなどという言葉も出てきませんでした。
しかし、なぜかこの父の言葉は鮮明に記憶に残っています。
当時、ロングレールが蕨-南浦和に導入されていたのかどうかはわかりません。 


●鋼橋の理論と計算 
(原題:Theorie und Berechnung der Stahlbruecken)
【著者】A.ハウラネック(A. Hawranek), Otto Steinhardt
【翻訳】橘善雄、小松定夫
【発行】1965/01/20 (初版1965/01/20)
【出版社】山海堂 【定価】¥2,800
この本は、前の本(ロングレール作業)と比べると明らかに設計者向けの内容となっています。最初から最後まで数式ばかり。翻訳者による序文には、こうあります。
第2次大戦後、橋梁工学の発達はめざましく、特にドイツにおいては、構造形式の創案と改善、高級材料の発明と利用によって鋼橋の飛躍的進歩が成し遂げられた。
鋼構造物技術はイメージ通りドイツが世界の先頭を走っていたのでしょう。


●擁壁の設計(第2版)土木構造物設計シリーズ
【著者】栗原利栄、藤森哲、手塚民之祐、小池晋
【発行】1972/04/10 (初版1962/01/30)
【出版社】オーム社 【定価】¥1,100
本書は大きく二編に分かれていて、道路編は日本道路公団と大和設計の専門家、鉄道編は鉄道建設公団と国鉄構造物設計事務所の方が執筆されています。
ちょうどこの頃、構造物の設計施工指針やコンクリート標準示方書などがまだ審議、発行、改訂などがなされていた時期だったので、実際の設計事例が紹介されている本書は、設計者にとってとても参考になったことと思います。