7/10/2016

絵はがき 勝山勝景

観光の内房 勝山勝景絵葉書 (房州勝山町 板倉写真館発行)



一応、カバーが残っていますが、中は1枚のみ。
高台からの市街地の眺望です。


Google Mapを見ると、大黒山展望台という展望台があります。
撮影された当時に展望台があったかどうかわかりませんが、景色の良い場所だったことは今も昔も変わらないでしょう。

しかし、この写真のように海の向こうに陸地が見えるところというとどのあたりなんでしょうか?
Google Mapをさらにじっくり見ていると、大黒山展望台からの景色を写した写真がありました。
ちょうど「展望案内図」も写っていますが、そこに書かれている右上の陸地(たぶん房総半島の勝浦から少し北の所)と稜線が絵葉書とよく似ています。(もちろん写真そのものもそっくりですが)
今度、展望台に行ってみたいですね。

ところで、この絵葉書の発行された時期というと、宛名面の上部が右から「郵便はがき」と濁点付きの「はがき」となっていることから、昭和8年から終戦までの間と推定されます。

ネット検索すると、絵葉書を撮影、発行した板倉写真館は今でも営業を続けられているようです。
もう、2代、3代目の方に引き継がれてるのでしょうか。
素晴らしいですね。

絵はがき 相模湖

自然美と近代美 相模湖 LAKE SAGAMI



左から右に文字が書かれているので、戦後発行の絵葉書です。
タイトルの「近代美」というのは、ダムと発電所の景観を指しているのだと思いますが、後から着色したようなレトロな感じな絵はがきには懐かしさを感じます。
全8枚から何枚かをご紹介します。

●電源相模ダムの風景


●近代美を誇る相模ダムの全景


●嵐山より大人造湖相模を全眺す


●電気科学館全景/電気科学館内部のパノラマ


相模湖は人造湖です。ネットで「相模湖 電気科学館」で検索すると、相模湖周辺の写真や沿革がまとめられたページがヒットしました。それによれば、
1947年(昭和22年):相模ダム(相模湖)完成 (6月14日竣工式)
1952年(昭和27年):相模湖電気科学館開館
1989年(平成元年):相模湖電気科学館閉館(37年の歴史に幕) 2000年(平成12年):神奈川県立相模湖交流センター・相模湖町立相模湖記念館開館(相模湖電気科学館跡地)
電気科学館はもう無くなって、今は新しい施設ができているんですね。

発電所については、神奈川県のHPで詳しく知ることができました。

やはり設備の劣化が進んだため、昭和の終わりから平成の初めにかけて大規模な設備更新が行われたようです。
建物の雰囲気は建設当時のものとすごく似ていますが、よく見ると違いますね。
ツートンカラーの上下が逆になってます。

私は相模湖に行ったことがありませんが、Google Mapなどで今の風景と絵はがきに写った景色を比べることができるので、楽しいですね。

7/03/2016

原子力平和利用の栞/原子力平和利用博覧会

古いパンフレットが出てきました。
「原子力平和利用の栞」というタイトルで、全32ページものです。
(これは、パンフレットを開いて表と裏の表紙を写したもの)


中を見ると、「原子力平和利用博覧会 共催 USIS・読売新聞社 後援 東京都」とあり、米国大使館文化交換局長 参事官 ジョゼフ S.エヴァンス氏と読売新聞社社主 正力松太郎氏のまえがきがあります。


これを読むと、原子力を平和の目的のために利用するための理解を促進させるためのキャンペーンのための博覧会のようです。
このパンフレットには、共催、後援は書かれていますが、開催時期、場所などは書かれていません。 そこでネットで「原子力平和利用博覧会」を検索すると、Wikipediaでヒットしました。
原子力平和利用博覧会(げんしりょくへいわりようはくらんかい)は、1955年から1957年にかけて日本各地で開催された、平和のための原子力を主題とする博覧会である。1953年に発足した対外宣伝機関アメリカ合衆国広報文化交流局(United States Information Service ; USIS)と、読売新聞社など各地の新聞社とが共催し、延べ約260万人が来場した。
Wikipediaによれば、
1955年11月1日-22日千代田区日比谷公園(来場者:36万人、共催:読売新聞社)を皮切りに、
 名古屋市愛知県美術館(37万人、中部日本新聞社)、
 京都市京都市美術館(15万人、朝日新聞大阪本社)、
 大阪市大阪アサヒアリーナ(18万人、朝日新聞大阪本社)、
 広島市広島平和記念資料館(11万人、中国新聞社)、
 福岡市福岡スポーツセンター(16万人、西日本新聞社)、
 札幌市中島スポーツセンター(21万人、北海道新聞社)、
 仙台市仙台市レジャーセンター(17万人、河北新報社)、
 茨城県水戸市水戸総合体育館(23万人、いはらき新聞社)、
 富山県高岡市高岡古城公園(約30万人)
とまさに日本全国を長期にわたってまわったようです。
(今回紹介したパンフレットはUSIS、読売新聞社共催、東京都後援ですので、1955年11月の日比谷公園での開催のパンフレットでしょう。)

まだ戦争が終わって10年くらい、広島、長崎の原爆の記憶がつい昨日のことのような時期に、広島でもこの博覧会が行われていたのは、意外でした。
原子力が爆弾以外に工業、医学、農業、動力、交通機関、その他考古学、美術、気象など、いろいろな分野に応用できるということを伝えることがこの博覧会の一番の目的だったのでしょう。
しかし、現在、原子力発電に非常にネガティブな朝日新聞や中日新聞がわずか60数年前にアメリカ政府(USIS)と共催でこんなキャンペーンを行っていたというのも、意外でした。
実際の博覧会の様子を写した写真はパンフレットに掲載されていませんが、イラストが掲載されていましたので、紹介します。

7/02/2016

昭和7年版「川口町勢要覧」

これまで昭和8年発行「市制施行記念 川口市勢要覧」、昭和37年の「川口市 市制施行30周年パンフレット」を紹介しましたが、今回は川口が市制に移行する前の昭和7年版「川口町勢要覧」です。

川口市は昭和8年4月1日に川口町・横曽根村・南平柳村・青木村の1町3村が合併して誕生しましたので、その前年の川口町最後の状況が取りまとめられた資料です。





以前、地券之証32枚が出てきて、その住所が埼玉県和光市内でしたので和光市教育委員会生涯学習課に寄贈いたしました。
川口市関係の資料はまだいくつか出てきそうですが、ある程度まとまったら、川口市に寄贈してもいいかな、と思っています。
もし、歴史的価値のあるものでしたら、私が持っているよりも、しっかりした方に良い環境で保管していただいた方がよいと思います。

6/27/2016

川口市 市制施行記念絵はかき

川口市役所に祖父が勤めていたこともあり、川口市役所にかかわる資料をいくつか紹介してきました1,2,3。
今日ご紹介するのは、川口が市制施行されたことを記念した絵はがきです。発行は川口市です。

中には7枚のモノクロのはがきが入っています。
川口に市制が施行されたのは昭和8年(1933年)です。

●川口市役所

市制施行当初は、旧川口町役場庁舎が使われていたようで、その当時の庁舎の写真です。
現在の栄町公民館(川口市栄町3-11-24)のところで、その後昭和10年(1935年)に現在の庁舎のある場所(川口市青木2-1-1)に移転されました。

●川口市栄町通

これは、今の栄町公民館前を東西に走る通りでしょうか。
着物姿の人たちが大半で、洋装の人がポチポチという感じです。
自転車に乗っている人もいます。
駅に近いということもあるのでしょう、右側には立派な洋風の建物が立っています。
入口の上部にこの建物の名前が書かれているようですが、読み取れません。
通りの左側には、手前に福助足袋の看板のある「つるや」という足袋・洋品屋さんがあって、電柱には「平民食堂」の看板が見えます。
今でも、ここで商売を続けているお店がどのくらいあるのでしょうかね?
左のビルには高島屋のマークと「高島屋十銭二十銭ストア」という書かれた大きな看板があります。
川口にも高島屋があったのかと思い、ネットで調べてみたら、mak**756*000さんのブログ「★川越スケッチブック-埼玉都民の川越暮らし」に詳しく書かれていたので、引用させていただきます。
100円ショップや99円ストアはいまやあちこちにありますが、そのルーツは戦前に遡ります。昭和6年に高島屋デパートが「高島屋十銭二十銭ストア」を設立してチェーン化したのが嚆矢です。デパート内に均一売場を設けていろいろリサーチし、その結果を踏まえてデパート以外の場所に出店したのです。東京では銀座・渋谷・日暮里・大塚・高円寺・亀戸・五反田・小山・池袋など、近郊では桐生・足利・高崎・川口などにあり、主にサラリーマンや工場勤務の人たちが多く住む地域を狙って出店したようです。扱い商品は食料品・日用品・洋品類など数千品目に及びました。のちには「高島屋十銭二十銭五十銭ストア」となり、諸般の事情で昭和7年以降は出店が中止されました。


●川口市本町通市街

これは、川口駅から南東方向へ延びる今の産業道路でしょうか?
建設工事のためのクレーンだと思いますが、かなり大型のものが設置されています。
道路の右側手前には、ユニオンビールの看板が。
「福田屋酒店」と書いてあるように見えます。
川口駅の近くには「ユニオンビール」の工場がありましたので、この店で買えば出来立てのビールを楽しめたことでしょう。
電柱には、「内田病院」「石森医院」などの看板が見えます。
今でも、開業しているのでしょうか?
酒屋さんの向かいの建物には「森永の菓子」と書かれています。
お菓子屋さんなのか、食料品屋さんなのかはわかりません。
店の角には「甲州入墨」の看板が見えます。
今のネット世界というのは、素晴らしいですね。
検索するとヒットしました。

甲州入墨

製作=松竹キネマ(下加茂撮影所) 
1932.08.26 帝国館/新宿・麻布松竹館/京橋新富座
7巻 白黒 無声


監督................ 秋山耕作
脚本................ 水門王吉
原作................ 水門王吉
撮影................ 森尾鉄郎
出演
................ 坂東好太郎 飯塚敏子 井上久栄

確かに写真の看板を拡大鏡でよく見ると「坂東好太郎」「飯塚敏子」の文字が読み取れます。
さらにこの二人はWikipediaにも掲載されていて、後に結婚されたんですね。
ちなみに、以前紹介した「昭和8年発行 川口市勢要覧」によると、当時の川口市の活動写真館は3つあり、 定員2,100人、従業員45人、入場人員2,586,000人とのことです。
入場人員はかなりのものです。年間3つの映画館で約259万人。
映画館1館で年間300日営業するとして、毎日2,800人以上のお客様が鑑賞していた勘定です。
最近の映画館の1館当たりの入場者数がどのくらいなのか知りませんが、平均して1日2,800人も入っているようには思えません。
とすれば、昭和初期の映画(活動写真)人気というのはすごかったのですね。

●川口名所荒川放水路

今の景色は、昭和初めには出来上がっていたんですね。

●川口神社

ネットで現在の写真を見た限りでは、本殿の姿は変わっていないように見えますが、どうなんでしょうか?

●川口名所前川観音、川口名所善光寺
●勢貴神社



この2枚には、それぞれ5名の紳士が並んで写っています。
同じ方々のようにも見えますし、そうでないようにも見えます。
川口町など4つの自治体が合併して川口市になったので、各首長さんが記念に写ったのかもしれません。


6/05/2016

最新版 潮来名勝 名勝絵はがき

今日も昔の絵葉書です。

最新版 (特製)潮来名勝 名勝絵はがき (潮来町田山写真館発行)

モノクロの8枚入りです。


発行元の田山写真館が今も続いているのか、ネットで検索しますと・・・
ありました、ありました。
JR鹿島線潮来駅すぐそばですね。

発行時期は特に書かれていませんが、
・通信面仕切り線が、はがきの2分の1の位置に引かれていること
・はがき上部に右から「郵便はかき」と書かれていること(はがきの「が」に濁点が無い)
から、「古い絵葉書の時代判別法」によれば、大正7年から昭和8年ころと思われます。

それでは、何枚か紹介します。
●水郷十二橋の一部

ネットを見ると今はすっかり近代的な橋になっています。
一番手前の橋には手すりが一本取り付けられていますが、奥の方の橋には手すりも無いようです。
私は埼玉県浦和市(現さいたま市)で生まれ育ちましたが、祖母の実家(歩いて15分くらいのところでしたが)に行くには、このような手すりの無い橋を渡るところがあって、怖くて行きたくなかったものです。

●長勝寺本堂

ネットで最近の写真を見ると、今でも立派な茅葺屋根の本堂のままですね。

●濱町遊郭通り

潮来には遊郭があったのですね。
ネットでいろいろと検索していたら、潮来浜町の遷り変りについて取り纏めた論文が見つかりました。お茶の水女子大の大学院生の方の論文です。
この写真だけでは窺い知ることのできない経緯がよくわかりました。
ところで、この写真の左端に「ロート目薬」の琺瑯看板がありますね。
ロート製薬のHPで沿革を調べると、ロート目薬は明治42年に発売が開始されたとのことです。
まだロート製薬が「信天堂山田安民薬房」という名前の会社だった頃ですが、既に全国版の商品になっていたんですね。

●潮来名物あやめ踊

毎年開催されている水郷潮来あやめまつりでご披露されているあやめ踊りと同じものでしょうか?
芸妓さん勢ぞろいといったかんじですね。

●稲荷山より

今でもこの場所は残っているのでしょうか?
今の景色と見比べてみたいですね。

このほかに
 ●あやめトすいれん
 ●浪逆浦
 ●潮来天王河岸
があります。
場所が特定できるものもあるのかもしれませんが、既に埋め立てられてしまっているところもあることでしょう。

潮来には行ったことがないのですが、日帰りで行けるところなので、今度昔の写真と今を比べに出かけてみようと思います。

6/01/2016

富士山頂上絵葉書

今日は久しぶりに昔の絵葉書を紹介します。

富士山頂上絵葉書:官幣大社浅間神社社務所発行(東京神田紺屋町富士印刷社印行)

青・赤二色刷りの紙に包まれた白黒10枚組です。
包み紙、各葉書には「頂上 7.7.31 登拜記念」と書かれたスタンプが押されています。



この包み紙の裏側には「官幣大社浅間神社由来」が書かれています。

さて、ここでは2枚だけ紹介しますが、私は富士山登山をしたことがないので、今とどう違っているのか解説することはできません。
しかし、どう見ても2枚目の「富士山胸突」に写っている登山者の姿は、今とは違いますね。
●富士山頂上官幣大社浅間神社奥宮


●官幣大社浅間神社奥宮境内 富士山胸突


このほかの写真はタイトルだけ紹介します。
●官幣大社浅間神社奥宮境内 富士山頂上金明水
●官幣大社浅間神社奥宮境内 富士山頂上銀明水
●官幣大社浅間神社奥宮境内 富士山頂上御来光
●官幣大社浅間神社奥宮末社久須志神社と石室
●官幣大社浅間神社奥宮境内 富士山砂走り
●官幣大社浅間神社奥宮境内 富士山頂上剣ヶ峰と萬年雪
●官幣大社浅間神社奥宮境内 富士山頂上駒ヶ岳
●官幣大社浅間神社奥宮境内 富士山頂上影富士


ところで、スタンプ「頂上 7.7.31 登拜記念」の日付「7年7月31日」とは、大正なのか昭和なのかいったいどちらなのでしょうか?
葉書の宛名面を見ると、下1/3まで通信欄が設けられていて、上部は右から左へ「ゆうびんはかき」(「はがき」の「が」が濁点なしで「か」)となっています。


絵葉書の年代を割り出すのに参考にしている「探検コム」というHPがあります。
そこには、「古い絵葉書の時代判別法」というコラムがあり、それによればこの葉書が発行されたのは1910(明治43)年4月~1918(大正7)年3月の間と推定されますので、おそらく「大正7年7月31日」だと思います。

しかし、大変勉強になりました。